羽生善治九段が叡王戦に初登場した2016年6月25日の対局が本記事のテーマです。
九段戦予選の好カード、▲羽生善治vs△屋敷伸之戦です。
本局では、屋敷伸之九段が居角左美濃という戦法を採用しました。
この戦法は最近のプロ棋戦で注目を集めている最新形の一つです。もともとコンピュータ将棋が好む指し方と知られており、コンピュータ将棋に詳しい千田翔太さんは公式戦で何度も採用して高い勝率を上げています。
また、第1回叡王戦では阿部光瑠さんが森内俊之さんに対して居角左美濃を用いて快勝しています。この対局も居角左美濃戦法の優秀性を広めました。
このように、コンピュータ将棋や叡王戦と何かと縁の深い居角左美濃戦法を、屋敷伸之さんが叡王戦の対羽生戦という舞台で採用したのは非常に興味深いです。
しかも、屋敷伸之さんが本局でチャレンジしたのは最新形の中の最新形で、プロの実戦例もほとんどないそうです。
ニコニコ生放送の解説は山崎隆之叡王、聞き手は山口恵梨子女流二段です。
ニコニコ生放送:2016年6月25日 叡王戦九段予選 羽生善治 vs 屋敷伸之
棋譜:2016年6月25日 叡王戦九段予選 羽生善治 vs 屋敷伸之
このページの目次
居角左美濃の序盤のポイント
初手からの指し手:▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀(下図)
本局の最初のポイントは、羽生善治さんの5手目▲7七銀です。
「既にトップ棋士が矢倉の5手目で、▲6六歩ではなく▲7七銀を指している」という情報があるのは知っていましたが、ニコニコ生放送で羽生さんが▲7七銀を迷いなく指したのを目撃したのは軽く衝撃的です。
以下は、羽生さんによる急戦矢倉の名著です。矢倉中飛車、米長流急戦矢倉、急戦棒銀、右四間飛車などが解説されています。『変わりゆく現代将棋(上巻・下巻)』
この本でも分かるように、矢倉の序盤に細心の注意を払っている羽生さんなので、5手目▲7七銀の選択には重みがあります。
上図からの指し手:△6二銀▲5六歩△6四歩(下図)
そして、屋敷伸之さんは早くも△6四歩です。
この時点では後手の作戦として、カニ囲いの急戦矢倉、矢倉中飛車、△3三角~△5一角~△8四角(△7三角)の三手角などの可能性も残されています。
上図からの指し手:▲2六歩△3二銀(下図)
後手が普通の矢倉を組む可能性が低いので、▲2六歩と飛車先を突いて牽制します。
対急戦矢倉では▲2六歩~▲2五歩を早めに突くのがコツです。
△3二銀で後手の居角左美濃がほぼ確定です。
しかし、先手が6筋を突いていない5手目▲7七銀型に対して、果たして居角左美濃戦法が成立するのでしょうか?
本局の序盤の最大のポイントがこの点です。
5手目▲6六歩型に対する居角左美濃は、プロ公式戦での実戦例も多く、かなり有力のようです。(参考棋譜:2015年叡王戦▲森内俊之vs△阿部光瑠戦)
しかし、解説の山崎隆之叡王によると、先手が6筋を突いていない形での居角左美濃は実戦例がほとんどないらしいです。つまり、多くのプロ棋士は5手目▲7七銀型に対する居角左美濃戦法は難しいと思っているということです。
とはいえ、屋敷伸之さんは他のプロ棋士が誰も指さない「忍者銀」と呼ばれる急戦矢倉で、A級順位戦で結果を残した実績もある豪腕です。未知の最新形でどのような構想を見せてくれるのかが楽しみです。
上図からの指し手:▲2五歩△6三銀▲7八金△4二玉▲2四歩△同歩▲同飛
▲2五歩に対して、もし△3三角(下図)と受けると、▲7九角で2筋の歩交換と角交換を狙われて困ります。
上図以下、△4二角と引いても▲2四歩△同歩▲同角△同角▲同飛△2三歩▲2八飛(下図)で先手良しです。赤丸で示されている2二の地点が隙で、次の▲2二角が受けづらいです。
このように、▲2五歩に対して△3三角とは受けづらいです。また、△3三銀と受けると△6四歩型とのバランスが悪く、角が使いづらくなります。そこで、後手は△6三銀~△4二玉と駒組みを進め、2筋は受けない方針で進めます。
羽生善治さんの居角左美濃対策
まず、そもそも羽生善治さんの5手目▲7七銀が居角左美濃対策です。
そして、早めに2筋の歩交換をして積極的に主導権を握りにいくのが、5手目▲7七銀からの継続手段でした(下図)。本局では歩交換の▲2四歩を決断する前に長考しているので、早くも勝負所という雰囲気です。
屋敷伸之さんも▲2四飛の局面で長考します。互いにここが勝負所だという判断でしょう。
もしかすると、羽生善治さんの▲2四歩の長考が、屋敷伸之さんの指し手に影響を与えた可能性があります。というのは、実戦ではここで後手が妥協したために、先手に主導権を握られてしまったからです。
対局後の感想戦では上図の局面が真っ先に検討されました。感想戦では上図で△3一玉や△2三歩が検討されました。
△3一玉▲3四飛△4四角▲2四飛△3三銀▲2五飛△2二飛▲2三歩△5二飛▲4八銀△5四歩▲6九玉△3二金▲3六歩△3四銀▲2八飛△2三銀▲3七銀△2四歩▲4六銀(下図)が△3一玉以下の変化の一例で、これはいい勝負とのことです。
△2三歩▲3四飛△7四歩▲3六飛△7三桂▲6九玉△8五歩▲4八銀△5二金▲5八金△3一玉▲1六歩△5四銀▲1五歩△4四角(下図)が△2三歩以下の変化の一例です。これは、先手が一歩得の代償として手損をする展開です。しばらくは、▲3四桂の傷が気になるのですが、具体的に先手を良くする順が難しく、下図の局面まで進むと形勢不明のようです。
△2三歩▲3四飛の局面でのponanzaの評価値はほぼ互角です(下図)。横歩を取られてもバランスが取れている局面だったようです。
ちなみに△2三歩に対しては、▲3四飛以外に▲2八飛や▲2五飛も考えられます。
▲2四同飛からの指し手:△4四角▲2八飛△2三歩▲4八銀△3一玉▲5七銀△3三角(下図)
実戦は、△4四角▲2八飛△2三歩の妥協です。この順だと横歩は取られないのですが、4四角の当たりがきつくなります。さっそく、先手は▲4八銀~▲5七銀で4四の角に狙いをつけ、後手は△3三角と下がらざるを得なくなりました。
△3三角と引いたところでは後手は手損になっています。1手で△3三角と上がれるのを、△4四角~△3三角と2手かけているので少なくとも1手損です。さらに言うと、もともと「居角」左美濃戦法と呼ぶぐらいなので、角の移動に手をかけない展開が理想です。居角と比較して後手は2手損と考えることもできます。
上図からの指し手:▲3六歩△5四銀▲4六銀△4四歩▲3五歩(下図)
△4四歩の局面でのponanzaの評価値は+300ぐらいです。評価値が+300ぐらいまで開くと、プロ棋士の目から見ても互角ではないので、形勢判断としては「先手十分」です。
どうやら、▲2四同飛の局面で後手が横歩を取らせないために妥協したので、形勢の針が先手にやや傾いたようです。▲3五歩と先攻して先手が完全に主導権を握っています。
上図からの指し手:△4三銀引▲7九角(下図)
本局の大きなポイントとなったのは下図の局面です。
感想戦では上図での△3五歩を羽生善治さんが指摘し、非常に熱心に検討されました。
△3五歩▲同銀△3四歩▲2四歩△3五歩▲2三歩成△同銀▲同飛成△2二飛▲同龍△同玉▲4六角(下図)が一例です。この手順中で、▲2四歩の代わりに▲2六銀、▲2二同龍の代わりに▲2四歩も検討されています。さらに、下図からも△4五歩や△2七飛の選択肢があるので、全体としてはかなり変化が幅広いです。形勢は難解のようです。
▲7九角からの指し手:△5二金▲6九玉△8五歩▲1六歩
実戦では△3五歩ではなく△5二金で、相居飛車戦ではかなりめずらしいダイヤモンド美濃囲いになりました(下図の赤丸)。形自体は好形なのですが、上部からの攻めに対しては、それほど強い囲いではないので苦労しそうです。(参考記事:囲いの堅さランキング)
後手を守勢に立たせてから、先手は▲6九玉で居玉を解消します。
△8五歩に対して先手は悠々と▲1六歩ですが、△8五歩はある攻め筋を狙っていました。
下図は▲1六歩までの局面です。ここから後手が手筋の反撃をします。
上図からの指し手:△4五歩▲同銀△3五歩▲同角△8六歩▲同歩△8五歩(下図)
屋敷伸之さんが盤面を広く使った手筋の攻めをします。△4五歩で銀を五段目におびき寄せ、△3五歩で1歩を補充し、△8六歩~△8五歩の継ぎ歩攻めです。
最後の△8五歩(下図)に対して素直に▲同歩と取ると、△8五同飛で十字飛車が決まって、次の△4五飛の銀取りと△8九飛成の桂取りの両狙いが受からなくなります。
一見、屋敷伸之さんの華麗な攻めが成功しているようにも見えるのですが、後手の歩損と、先手の攻め駒を前に呼び込むデメリットも考慮に入れる必要があります。
上図からの指し手:▲3七桂△8六歩▲8八歩△7四歩▲4六角△6三金▲5八金△7三桂
△8五歩の継ぎ歩に対して▲同歩とは取れないので▲3七桂と活用します。以下、△8六歩▲8八歩で先手の左辺を壁形にさせたのは後手のポイントです。
とはいえ、後手には歩損と、先手の攻め駒を前に呼び込んだ損が残っています。局面全体の形勢としてはどうなのでしょうか?
継ぎ歩の少し前の▲3五角の局面でponanzaの評価値が+450ぐらいです(下図)。当然、ponanzaも継ぎ歩の攻めは読んでいるはずなので、左辺が壁形になっても先手十分という判断なのでしょう。
羽生善治さんの▲3七桂を見て、解説の山崎隆之さんは▲4八金~▲2九飛~▲5八玉(下図)のような中住まいの構想を披露していました。山崎隆之さんが得意の相掛かり戦法で現れそうな形です。この構想も有力らしく、下図の山崎構想でponanzaの評価値は+500ぐらいあるので先手優勢です。
聞き手の山口恵梨子さんは、「山崎先生っぽい(笑)」「3手進んだだけで、一気に山崎先生になったのですごいびっくりしました。形が・・・(笑)」と爆笑しすぎです。
ちなみに、感想戦の羽生善治さんの見解としては、一度▲6九玉と寄ったのに▲5八玉と戻るのはイマイチとのことで、特に深くは検討されませんでした。
実戦では普通に▲5八金と上がります(下図)。矢倉とカニ囲いの中間のような囲いで、実戦でよく現れる金銀の形です。
そろそろ中盤から終盤に差し掛かるタイミングです。下図の辺りでponanzaの評価値は+650ぐらいで、先手がじわじわとリードを広げています。+650ぐらいまで評価値に差が開くと、「先手十分」「先手やや優勢」を通り越して、「先手優勢」と言えると思います。
ここまでの羽生善治さんの指し方をまとめると、
1.早めに2筋から動くことで主導権を握りにいく。
2.後手が妥協したので、さらに銀を前進させて主導権をがっちりとつかむ。
3.玉は戦いながら囲う。後手を守勢に立たせてから。
という流れで優勢を築きました。
「まずは玉を囲ってから攻める」「攻め始めたら攻め続ける」というような単純な方針ではなく、一手一手について攻めるか守るか、それとも待つかを柔軟に選択しているような指し回しが印象的です。
羽生善治さんの中終盤の攻め方
△7三桂からの指し手:▲6六銀△7五歩▲2五桂(下図)
△7五歩のタイミングで、▲2五桂の反撃です。これが総攻撃ののろしになりました。
▲2五桂の前に▲6六銀と△7五歩の交換を入れたのが細かいポイントです。感想戦で羽生善治さんは、左辺の壁形を気にしていたとのこと。「細かいところで少しでもポイントを稼いでから総攻撃する」という勝負の呼吸は非常に参考になります。
▲2五桂の局面では、先手の攻撃陣は飛角銀桂の4枚が理想的なポジションで、さらに持ち歩が3枚もあり2筋と3筋に使えるので、攻め駒としては十分です。
「攻めは飛角銀桂」「4枚の攻めは切れない」という格言がありますが、本局では後で6六の銀まで攻撃参加することになります。「5枚の攻めはもっと切れない」です。
ここまで、攻めが厚いと受け切るのが難しいので、屋敷伸之さんは勝負手を放ちます。
上図からの指し手:△6五歩▲5五銀△2四角▲2二歩△同玉▲3三歩△同桂▲同桂成△同銀▲3五桂(下図)
角取りを放置しての△6五歩が勝負手です。
△6五歩に対して、▲3三桂成と角を取ると△同桂で、4五と6六の2枚の銀が当たりになって先手が忙しくなります。また△6五歩に対して、うっかり▲7五銀とすると△8七歩成で一気に逆転模様です。
しかし、▲5五銀が冷静です。
以下、△2四角と逃げますが、▲2二歩の利かしから▲3三歩がものすごく厳しいです。
映像を見ると、▲3三歩のところで羽生善治さんの手が少し震えているようです。
上図の▲3五桂の局面でのponanzaの評価値は+1300ぐらいです。
▲3五桂(上図)からは一気の寄せで後手陣は崩壊してしまいました。感想戦は▲3五桂の局面で打ち切られているので、これ以降は勝負所がなかったということでしょう。
攻めの基本は玉の守備駒をはがすことですが、まさにお手本通りの攻めです。
上図からの指し手:△3二金▲4三桂成△同金▲2四角△同銀▲4四銀左(下図)
▲2四角の局面でのponanzaの評価値は+2000です。+2000まで行くと「先手優勢」を通り越して「先手勝勢」と言えます。
▲4四銀左の局面は先手の勝勢ですが、
1.後手の盤上の守備駒がどんどんはがされている。
2.後手の持ち駒は角と桂2枚のみで、守りに役立つ金銀がない。
3.先手は駒得の攻めで、攻め駒の数も5枚(飛角銀3)で十分すぎる。
このような状況は、攻めが決まっている場合の典型例の一つです。
上図からの指し手:△4四同金▲同銀△3七角▲2四飛△同歩▲3三金まで(投了図)
投了図の▲3三金以下は、△1二玉なら▲2三銀△2一玉▲2二銀打△同飛▲同金で即詰みです。▲3三金に対して△3一玉なら、以下▲3二銀△同飛▲同金△同玉▲4三角△2三玉▲3三飛から即詰みです。
居角左美濃と本局のポイントのまとめ
本局では序盤から中盤にかけて形勢に差がつきました。差がついた後でも、羽生善治さんは細かい所で有利を拡大し、総攻撃からは一気の攻めが決まりました。
一方、屋敷伸之さんは普段は指さない居角左美濃にチャレンジしました。しかも、5手目▲7七銀型に対する居角左美濃なので、従来の5手目▲6六歩型に対してよりもハードルが高いチャレンジです。残念ながら失敗してしまいましたが、意欲的な試みだったと思います。
勝負所は序中盤だったわけですが、本局で勝敗を分けた大きなポイントは次の3つです。
1.5手目▲7七銀に対する居角左美濃戦法が成立しているか。
2.▲2四同飛の局面での△4四角の妥協。(△3一玉、△2三歩の見送り)
3.▲7九角の局面でおそらく最後のチャンスだった△3五歩を逃す。
感想戦では2と3のポイントを中心に調べられましたが、どちらも結論としては難解です。
最後に、「居角左美濃 vs 5手目▲7七銀型」の戦法についてまとめます。
1.先手が6筋の歩を突かない形(5手目▲7七銀型)では争点がないので、後手が居角左美濃戦法を選んでも6筋を攻める形になりづらい。
2.ただし、5手目▲7七銀型に対する居角左美濃の成立の是非自体は難解。▲2四飛の局面で△3一玉か△2三歩が有力だった。
3.先手の対策としては、早めに飛車先の歩交換をする指し方が有力。守勢にならずに、主導権を握れる可能性がある。
4.ただし、玉が薄い将棋になるので、主導権を握ってからも柔軟な指し方が要求される。戦いながら玉を固めるなど。
5.全体的には、急戦調の将棋なので一手の価値が高い。序盤で形勢に差が付きやすい。
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