2016年5月27日に行われた第64期王座戦挑戦者決定トーナメントでの▲豊島将之七段vs△阿久津主税八段戦での阿久津八段の新工夫です。
阿久津八段と言えば、阿久津流急戦矢倉(矢倉△5三銀右急戦)で有名ですが、そのスペシャリストの新工夫が△5三銀右を保留したタイミングでの△5五歩(図1)です。
従来の△5三銀右急戦では図2の基本図のタイミングでの△5五歩でした。図2と図1を比較すると、後手は△8五歩と△5三銀右を決めていないという違いがあります。
なぜ、このような違いが生まれたのか? その理由の一つが矢倉の5手目問題です。
矢倉の5手目問題とは、矢倉の5手目で▲6六歩(図3)とすべきか、▲7七銀(図4)とすべきか、という問題です。がっちりと組み合う相矢倉では、どちらも同じ形に合流するのですが、後手が右四間飛車や急戦矢倉を狙った場合に▲6六歩と▲7七銀では大きな違いがあります。そして、近年では5手目▲6六歩が主流の時代が長く続いていました。
その流れに一石を投じたのが、コンピュータ将棋です。最近、コンピュータ将棋が好む作戦である「居角左美濃△6三銀型急戦」(参考:将棋戦法大事典の居飛車編)が注目を集めています。この戦法は6筋が争点になるので、5手目▲6六歩をとがめている意味があります。
本局での豊島七段の5手目は▲7七銀でした。「居角左美濃△6三銀型急戦」を警戒しているのでしょうか。
すると、△5三銀右急戦においては△8五歩として▲7七銀型を強要する必要がないので、後手が少し得をしている可能性があります。つまり、5手目▲7七銀は、「居角左美濃△6三銀型急戦」への対策としては有力ですが、△5三銀右急戦に対しては少し損になっている可能性があるのです。
また、もし5手目▲6六歩を選んだとしても、最近流行している早囲いでも▲7七銀を早めに上がるので、図1の仕掛けの一手前の局面は増えています。
図1では図2の従来型の基本図と比べて、△8五歩が保留できており、さらに△5三銀右も保留しているので、先手が居玉のタイミングでの仕掛けになっています。
図1には前例が1局だけあり、棋譜でーたべーすによると1999年の▲三浦弘行vs△小林裕士戦が同局面検索で出てきました。
実は、▲豊島vs△阿久津戦でも▲三浦vs△小林裕戦でも、結局右銀を5三に上がる展開になっています(図5、図6)。こうなると、△5三銀右を保留した意味があるのか? ということになります。むしろ、先手が居玉のまま形を決めずに▲7八金、▲6九玉、▲7九角などを保留できています。
後手が△5三銀(右)を保留して得をしようとしたものの、逆に先手に色々と保留されて損をしている可能性があるわけです。
本局では図5以下、▲6六銀△7三角▲7五歩△8五歩▲7四歩△9五角▲5八玉(図7)と進みます。
図7では8筋が危なそうなのですが、以下△8六歩▲同歩△同飛▲7八金△8二飛▲9六歩△5一角▲8七歩△7二飛▲5七銀上△7四飛▲6九玉(図8)で、7~8筋の戦いはひとまず収まりました。
図8を眺めてみると、金銀の厚みがずいぶん違います。後手は動いたわりには戦果をあまり上げられていない感じです。ここでは、先手が指せているのではないでしょうか。
さかのぼって考えると、図5から図7までの手順で△8五歩を突いているので、序盤で△8五歩を保留できていたメリットは消えている可能性があります。また△9五角▲5八玉の辺りでは、たしかに居玉の弱点を突いているのですが、▲5八玉~▲7八金で先手陣が耐えているとなると、後手としてはイマイチです。
居玉で▲7八金も上がっていない少々危なっかしい形から図8あたりまで、見事に自陣をまとめた豊島七段の指し回しがすごかったと思います。以下、豊島七段が勝利しています。
本局の△5三銀保留の作戦は上手くいきませんでしたが、阿久津八段の面白い工夫だったと思います。矢倉の5手目▲7七銀の時代が来るとするなら、△5三銀右急戦にも新しい展開がおとずれるかもしれません。とはいえ、戦法の構造的に△8五歩や△5三銀の保留を有効にできるかどうかは未知数です。