将棋の格言「四隅の香を見る」と木村一基vs羽生善治の相矢倉戦

「四隅の香を見る」という将棋の格言があります。この格言は「盤面全体を見よ」という教えを言い換えたものです。将棋の初形で香は盤面の四隅にあるので、「四枚の香を見ることによって、自然と盤面全体を見ることができる」ということです。

将棋の初形図(四隅の香)

例えば、盤面全体を見ることによって、遊び駒を発見して活用を狙う(「遊び駒を活用せよ」)、玉を安全なエリアに逃がす(「玉の早逃げ八手の得」)、局所的には不利なので戦線を拡大する(「不利な時は戦線拡大」)、など他の格言を生かすためのヒントを得ることができます。様々な発想を思い付くためのヒントは盤面全体に散らばっており、「盤面全体を見る」ことは基本的かつ極めて重要な技術と言えるでしょう。

さて、「四隅の香を見る」と「盤面全体を見る」という二つの表現は、同じことを言っているようでも、そのニュアンスが異なります。盤面を見るやり方が微妙に違いますし、「目線の使い方」「脳の使い方」「盤面の認識方法」などが必ずしも同じではないと思います。

どういうことかと言うと、「四隅の香を見る」ための一つのやり方として、香がある地点に目の焦点を絞りながら、(香は4枚あるので)目線を4回動かすというやり方があります。一方で、もう一つのやり方は、「盤面全体を眺めて」視界の中に四隅の香を収めるという目の使い方です。後者の場合は、目線自体は盤面の中心付近にあるので、視界において中心からやや離れた位置で四隅の香を捉えていることになります。

この両者は、一見同じようで微妙に違います。それどころか、極めて重要な違いなのではないか?とさえ思います。

話が広がりそうな所ですが、少々脱線気味なので、話を少し戻します。

そもそも「盤面全体を見る」とは、どのようなことなのでしょうか?

ここで、プロの実戦例を一つ挙げたいと思います。プロの実戦を参考にして、いくつかの視点から、「四隅の香を見る」「盤面全体を見る」とは何か?を考えてみます。

今回取り上げるのは、2014年7月に行われたタイトル戦、木村一基八段vs羽生善治王位の王位戦七番勝負第2局です。(参考資料:将棋世界2014年10月号)

戦型は相矢倉で、▲3七銀戦法の宮田新手と呼ばれる形です。▲3七銀戦法はプロの公式戦で膨大な数の実戦例があります。いわゆる「宮田新手」とは、4六銀―3七桂型から後手の専守防衛策に対して▲6五歩と突く手のことで、宮田敦史さんが最初に指したので宮田新手と呼ばれます。(図1)

2014年第55期王位戦木村羽生(相矢倉)-45

▲3七銀戦法における4六銀―3七桂型の特徴として、先手が主導権を握って攻め続ける展開が多いことが挙げられます。もう一つの大きな特徴は、定跡化がかなり深くまで進んでいる戦型であるということです。

2014年第55期王位戦七番勝負第2局木村羽生(相矢倉)-492014年第55期王位戦七番勝負第2局木村羽生(相矢倉)-73

図2(49手目)は仕掛けの局面ですが、先手の攻めは飛角銀桂香の5枚が参加しており、玉の囲いを構成している金銀3枚と玉側の桂香以外の駒はすべて攻めに参加しています。「盤面全体を見る」の一つの意味は、盤面で遊んでいる駒を作らないことです。特に攻めに注目した場合は、図2のように、玉を守る囲いの駒以外、すべての駒が攻めに参加しているのが一つの理想形です。

図2からしばらく進んで、図3(73手目)まで進むとよくわかるのですが、先手の攻めは飛角銀桂香の5枚をすべて活用した総攻撃になっています。一方で、後手は金銀4枚を玉の近くに集めて、徹底的に受けに回っています。

2014年第55期王位戦七番勝負第2局木村羽生(相矢倉)-88

さて、「盤面全体を見る」ことの別の意味合いが、図4(88手目)で現れています。本局全体の流れの中で、88手目の△8六歩は攻守が入れ替わった瞬間です。今まで徹底的に受けに回っていた後手が、初めて先手陣に手を付けた攻めの一手です。すなわち、攻守の両方を見るということが、「盤面全体を見る」のもう一つの意味合いです。攻めは相手陣の近く、受けは自陣の近くが通常なので、視覚的にも盤面全体を見ることになります。

盤面全体で判断した上で、攻めるか受けるかを決めるわけですが、棋士の棋風によって攻めと受けのバランスは違ってきます。本局の先手番の木村一基さんは「千駄ヶ谷の受け師」という異名もあるように、受けに定評がある棋風として知られています。一方で、後手番の羽生善治さんはどちらも苦にしないバランス型と言われています。

もともと、相矢倉の▲3七銀戦法は先手が主導権を握りやすい戦法として知られていました(過去形)。特に、後手に専守防衛を強いる展開では、先手が一方的に攻め続ける時間が長くなります。本局でも図4の一手前の局面までは、先手がずっと攻めていました。ちなみに、本局が指された時点で、ちょうどこの辺りまで同一局面の過去の実戦例があったようなので、すなわち90手近くの深さまで定跡化されつつあるということです。▲3七銀戦法の4六銀―3七桂型で、先手が主導権を握って攻める展開になりやすいというのがよくわかります。90手近くまで前例があるというのも驚きですが、互いに最善を尽くした結果として先手が一方的に攻めていて、なおかつ形勢が難解というのも驚くべきことです。普通は、これだけ長い間一方的に攻め続けているうちに、形勢がどちらかに傾いてしまいそうなものです。

受けに定評のある木村八段ですが、本局では先手が先攻する定跡の進行なので、攻める時間帯の方がずっと長い展開になっています。とはいえ、いずれ攻め合いの展開になれば、受けの力も存分に発揮されるわけです。

2014年第55期王位戦七番勝負第2局木村羽生(相矢倉)-93

例えば、図5(93手目)の▲7五歩です。この手は一手前の△3三玉の疑問手をとがめた好手で、この手を境に先手の木村八段が若干優勢になったようです。7三の桂頭を狙った攻めですが、実は△6五香に▲7六金右を用意した受けの手でもあったのです。すなわち、▲7五歩は攻防手ということになります。(参考:将棋世界2014年10月号)

図4の△8六歩と図5の▲7五歩を対比して考えると、△8六歩が攻守を切り替える手であるのに対して、▲7五歩は一手で攻めと受けの両方をにらんだ攻防手ということになります。攻めと受けの両方に働く地点は、急所の一つと言えます。このように、「盤面全体を見る」には、盤面上で急所の地点を発見するという意味合いもあります。

2014年第55期王位戦七番勝負第2局木村羽生(相矢倉)-94

▲7五歩に対する次の一手は、図6(94手目)の△2六歩の垂らしの歩です。今まで盤面の右下のエリアでは戦いが起こっていなかったのですが、一転して入玉を含みにした△2六歩▲2八飛の利かしが入ります。図4の△8六歩から▲同歩△8七歩▲同金△3三玉▲7五歩(図5)△2六歩(図6)という手順なのですが、後手の羽生王位の指し手のみを数手抜き出してみると、△8六歩~△8七歩~△3三玉~△2六歩と盤面のあちこちに飛んでいることがわかります。一連の手順は盤面全体を広く使っており、これも「盤面全体を見る」ことから生まれているといえます。

2014年第55期王位戦七番勝負第2局木村羽生(相矢倉)-148

図7(148手目)は最終盤のクライマックスです。△9六歩の端歩突きによって、9四の飛車だけでなく、今まで盤面の左上の隅で遊んでいた9一の香が最後に働き出します。まさに「四隅の香を見る」そのものとも言える展開です。 ここまでは、おそらく形勢的に微差の局面が長く続いていましたが、この△9六歩が決め手となったようです。最後に飛車に活を入れるとともに、香1本分の戦力も追加できたことが決定的です。

羽生王位は△9六歩にほぼ最後の持ち時間6分を投入していますので(これ以降は1分しか使っていない)、ここで最終的な勝ちを読み切ったのだと思います。

一局の将棋の平均的な手数は、プロの対局で110手前後です(参考:平成27年度版『将棋年鑑2015』)。この将棋は投了図まで162手で、平均に比べるとかなり長手数の将棋になりました。しかし、どちらかが明快な順を逃して、あるいは決め切る順を逃してグダグダになった対局ではないと思います。盤面全体で激しい戦いがあり、互いが多くの駒を使い切った結果としての長手数です。

2014年第55期王位戦七番勝負第2局木村羽生(相矢倉)-162

投了図(162手目)を眺めると、激戦の跡が随所に見られます。不動駒が少ないのは熱戦の証と言われますが、本局の不動駒は▲9九香と▲4七歩のたった二枚です。後手が最後に△9一香までさばき切って、本局に相応しい投了図になったと思います。まさに「四隅の香を見る」「盤面全体を見る」が凝縮された一局と言えるのではないでしょうか。