最善手とは? ~絶対と相対~

フクロウ

最善手」とは何でしょうか?

このシンプルな問いが本記事のテーマです。

「最善手」とは、ある局面において「最も善(よ)いと考えられる指し手」という意味で使われています。しかし、そもそも「最も善い」とはどういうことでしょうか?

このページの目次

悪手の山の中にある好手と最善手

将棋の神は最善手を選べるのか?

将棋の局面の絶対的な評価と相対的な評価

悪手の山の中にある好手と最善手

例えば、先手が優勢の局面で、手番を握っている先手に可能な指し手が100通りあるとします。そのうちのただ1通りの指し手だけが先手の優勢を維持し、残りの99通りの指し手が逆転を許す指し手だとしたら、先手の優勢の維持する唯一の指し手は最善手と言えるでしょう。

そうすると、他の99通りの指し手は逆転を許す悪手ということになるので、

1. 最善手、2. 悪手、3. 悪手、4. 悪手、・・・(悪手の山)・・・、99. 悪手、100. 悪手。・・・ケース①

という風に、このケースを表現できます。

しかし、もし優勢を維持する指し手が2通り以上ある局面ならどうでしょうか?

仮に、優勢を維持する指し手が2通りあるとして、その指し手に(悪手の反対で)「好手」という名前を付けることにすると、

1. 好手、2. 好手、3. 悪手、4. 悪手、5. 悪手、・・・(悪手の山)・・・、99. 悪手、100. 悪手。・・・ケース②

というように、悪手の山の中に好手が2つだけ存在する局面ということになります。

ケース②の場合に、この2つの好手のうち「どちらかが最善手、もう一方が次善手」というように優劣をつけられるかどうかが問題になります。

例えば、片方の手が駒得を重視する手であり、もう片方が相手玉に迫るスピードを重視する手であるとします。両者は異なるメリットを主張する手ですが、そのどちらも優勢を保てる手です。このような場合に、どちらの指し手が最善手かを決めるのは、必ずしも簡単ではないと思います。

あるいは、多くの人間の目から見て、明らかに片方の指し手の方が優っていて、そちらが最善手と評価されるような場合もあるでしょう。そのような場合ですら、最善手を決めるにあたって問題がないわけではありません。

将棋の神は最善手を選べるのか?

仮に、全知全能の将棋の神がいたとします。

ケース①の場合に、将棋の神はいとも簡単に最善手を導き出します。

しかし、ケース②の場合に、将棋の神はどうやって最善手を選ぶのでしょうか? もしかすると、サイコロを振って最善手と次善手を決めてしまうかもしれません。

人間の目には明らかに片方が最善手に見えるのに、将棋の神は平然ともう片方を最善手と言ってのけるわけです。そして、その選択に対して人間が納得いかずに抗議をすると、将棋の神はこう答えます。

「どちらでも先手の勝ちなのに、どうしてそんな些細なことにこだわるのか? 人間の考えることはさっぱりわからない。」

極端なことを言えば、詰みのある局面で詰ます手順を最善手と呼ぶかどうかすら怪しいです。

「詰みのある局面で詰ますのが最善であるというのは、人間の理想や美学が反映されている」と諭されるかもしれないですし、「有限の寿命を持つ人間だから最短の勝ちが最善であるという価値観を持ちやすい」とか、人間にはとうてい理解できない反論のされ方をするかもしれません。

いずれにしろ、ケース②で最善手と次善手を決めようとすると、絶対的な勝ち負け以外の、何らかの評価基準や価値観が必要ということになります。すなわち、多かれ少なかれ、その判断には主観的な要素が混じるということです。たとえ、ある評価基準に従って客観的に最善手と次善手を決めるとしても、その評価基準自体に(勝ち負け以外の)主観的な要素が入ってしまうので、結局は主観的な要素が混じってしまいます。

将棋の局面の絶対的な評価と相対的な評価

少々脱線しましたが、実は本記事のテーマの一つは「絶対的な局面の評価」と「相対的な局面の評価」の違いです。

優勢を維持する指し手がただ一つしかない局面では、最善手を指すか否かによって、結果として優勢(勝ち)になるか劣勢(負け)になるかという絶対的な違いが生じます。もちろん、最善手を指した局面と、そうでない悪手を指した局面を比較すると、両者の相対的な比較によっても最善手の方が優れているわけです。しかし、この場合に最も重要なのは、片方は優勢を維持し、もう片方は逆転を許すという意味で、二つの指し手に絶対的な違いが生じている点です。(ケース①)

一方で、優勢を維持する指し手が複数ある局面では、そのいずれの指し手を選んでも、優勢であることに変わりはありません。つまり、勝ちか負けかという究極的な(絶対的な)形勢判断に対する結果は変わらないのです。ただし、ある指し手と別の指し手を比較した時に、人間の目で見て、明らかにこちらの方が勝ちやすいという相対的な評価はしうるでしょう。(ケース②)

これは、コンピュータ将棋の評価値で、「+か-かの符号の違い」と、「同じ+でも数字が大きいか小さいかの違い」と考えてもらえばわかりやすいです。

このような考察は、将棋の実戦においても無関係ではなく、

優勢なときにどのような勝ち方を選ぶか?

という問題を発生させます。

一方で、優勢を維持できる手が一つしかないような局面は、問題としてはある意味単純で、唯一の正解である最善手を探し出せるかどうかという問題に帰着します。

終盤は誰が指しても同じ

とは(おそらく)昔の羽生善治さんが言ったことがですが、これはある意味で正しいです。終盤で煮詰まった局面では、優勢を維持できる手が一つしかない場合も多いからです。また、複数の勝ち方がある場合にしても、ギリギリの終盤戦ではかなり選択肢が限定されているので、「終盤は明確な答えが(複数であれ)存在する」という意味だと思います。この場合の「明確な答え」とは、数学の問題の答えのようなイメージです。

しかし、序盤や中盤ではどうでしょうか。明確な答えを得るのは簡単ではないと思います。また、終盤でどちらかが少し優勢ぐらいの形勢で、おそらく逆転には至っていないものの、延々と指し手が続くような将棋はいくらでもあります。有力な選択肢が複数存在するような局面が何度も現れれば、そのたびに悩まされることになります。

そんな様子を将棋の神様が怪訝な顔で眺めているかはともかく、優勢な局面で、かつ優勢を維持する指し手が複数ある場合に、何が最善手なのかを決めることは容易ではありません。