9. コラム | じゅげむの将棋ブログ https://shogijugem.com 将棋の戦法や定跡のまとめ、囲い、格言、自戦記、ゆるゆる研究シリーズなど。 Wed, 08 Feb 2017 14:55:57 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.5.3 111067373 佐藤天彦名人はどのくらい将棋ソフトを使ってるの? 研究の中でソフトが占める割合は・・・ https://shogijugem.com/amahiko-computer-3631 Sat, 01 Oct 2016 00:30:42 +0000 https://shogijugem.com/?p=3631 今年の将棋界の大きなニュースとして、佐藤天彦名人の誕生は記憶に新しいところです。 名人位を奪取する前も、王座戦と棋王戦の挑戦など目覚ましい活躍が続いていました。 もう一つ、最近の将棋界で常にホットな話題となっているのが将...

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佐藤天彦

今年の将棋界の大きなニュースとして、佐藤天彦名人の誕生は記憶に新しいところです。
名人位を奪取する前も、王座戦と棋王戦の挑戦など目覚ましい活躍が続いていました。

もう一つ、最近の将棋界で常にホットな話題となっているのが将棋ソフト関連です。
電王戦FINALから1年以上が過ぎた現在でも、最も刺激的な話題であり続けています。

今回の記事では、「佐藤天彦名人×将棋ソフト」をテーマにして考えたいと思います。
渡辺明竜王や羽生善治三冠にも登場していただきました。

 

佐藤天彦名人はどのくらい将棋ソフトを使っているのか?

渡辺明竜王と佐藤天彦名人の比較

羽生善治三冠と棋譜データベース

 

佐藤天彦名人はどのくらい将棋ソフトを使っているのか?

話題の新書『不屈の棋士(大川慎太郎著、講談社現代新書、2016年)』の前書きによると、

佐藤天彦名人「研究の中でソフトが占める割合は3割くらい」

『不屈の棋士(大川慎太郎著、2016年)』

ん?

3割ってそれなりの割合ですね。

いやいや、「研究の中の」3割だからそんなに大したことないかも?

 


不屈の棋士 (講談社現代新書)

 

プロ棋士の主な勉強方法は、実戦、詰将棋、研究(棋譜並べなどを含む)の3つです。

ただし、プロ棋士同士の研究会で行われるVS(1対1の練習対局)などは、上の3つの中では「実戦」に入りますが、これを「研究」と呼ぶプロ棋士もいると思います。

佐藤天彦名人の言う「3割」が、将棋の勉強全体の中での3割なのか、狭い意味での「研究」の中での3割なのかは不明です。

 

仮に、狭い意味での研究の割合を5割とします(実戦、詰将棋を除いて)。最新流行形を頻繁に採用している佐藤天彦名人なので、研究の割合は低くはないでしょう。

すると、5割の3割なので、ソフト研究が占める割合は15%ということになります。

将棋の勉強全体の3割だった場合は、そのままなので30%です。

どちらかは不明ですが、佐藤天彦名人が将棋ソフトを使っている割合はおおよそ15~30%と予想できます。

 

15~30%という数字は多いのか? それとも少ないのか?

たとえば、1日7時間将棋の勉強をした場合、15%で1時間ぐらいになるので、15~30%は1日1~2時間ぐらいです。

じゅげむ自身は何らかのプロフェッショナルではないので実感はわかないのですが、たとえば、「1日7時間ぐらい練習に費やしているプロの音楽家が、1日1~2時間はコンスタントに時間をかける練習法」と考えてみたらどうでしょうか?

 

名人、けっこうソフト使ってるよ・・・

 

少なくとも、将棋の勉強全体の中で、ソフト研究が主要な一部分を占めているのは間違いないと言えます。

将棋ソフトで研究することは、やっぱり重要なんでしょうか?

しかし、渡辺明竜王は(勝敗については)ソフトの影響はあまりないと言っていますし、実際のところはどうなんでしょうか?

将棋ソフトで研究すれば勝てるのかを、渡辺明竜王がたった一言で説明しているけど・・・
将棋ソフトとプロ棋士の関係は、最近の将棋界の大きなテーマの一つです。 最も刺激的で荒れやすいテーマでもあります。 ソフト...

 

渡辺明竜王と佐藤天彦名人の比較

弱点を補うためにソフトを使うのが効果的というのがじゅげむの説です。

あくまでも、単なる仮説です。

 

渡辺明竜王と将棋ソフト

渡辺明
出典:https://kifulog.shogi.or.jp/kiou/

まず、逆にソフトで強化できる部分が自分の弱点ではない場合はどうか?

たとえば、渡辺明竜王は研究家でスペシャリストとして有名です。もともと序中盤の研究は将棋界トップクラスで、他のトップ棋士と比べても強みがある部分と言えるでしょう。

もちろん、渡辺明竜王は将棋ソフトの有無は関係なく超強い棋士です。さらに言えば、ソフトがない将棋界の環境の方が有利な棋士だと思います。

実は、以前の記事で引用した「現状ソフト研究が浸透していても、勝つ人は以前と変わっていません。」という渡辺明竜王のコメントには、

渡辺明竜王「・・・将棋連盟がソフトを配布するぐらいなら、いっそ禁止した方がいい気がします。これは大事なことですが、現状ソフト研究が浸透していても、勝つ人は以前と変わっていません。」

不屈の棋士(大川慎太郎著、2016年)

という前置きがあるんですね。

渡辺明竜王が「将棋ソフトは禁止になってもいい」と思っているのは間違いないです。このことから推察すると、渡辺明竜王は「ソフトがない環境の方が自分にとって有利」だとおそらく自覚しています。

そして、ソフトがない環境の方が竜王にとって有利な理由は、将棋ソフトで強化できる部分と渡辺明竜王の本来の強みが近いからだと思います。すなわち、ソフト研究の広がりによって、将棋界全体の序中盤の研究レベルが上がると、渡辺明竜王の本来の強みを生かしにくくなるというわけです。

 

それに加えて、もう一つ気になる点があります。

評価値という数値による形勢判断が将棋ソフトの特徴です。最近はソフトの影響で、点数で形勢判断をする棋士が増えているそうです。

しかし、渡辺明竜王はもともと(コンピュータ将棋の影響とは関係なく)、加点・減点方式に近いやり方で形勢判断をしていたようです。

僕は現役屈指の理論派ですから。たとえば桂得してプラス何点。その後にミスをしてマイナス何点というように差し引きしています。

渡辺明の思考:盤上盤外問答(2014年)、p.25

すなわち、形勢を数値化するという手法は、渡辺明竜王にとっては何ら目新しい技術ではないということになります。既に、あの形は何点ぐらいで・・・という感覚が染みついているので、ソフトの形勢判断の手法から学べることは少ないでしょう。

さらに付け加えると、渡辺明竜王の長所の一つが無理気味の攻めをつなぐ技術です。この点についても、将棋ソフトから学びやすい部分と竜王の強みに似たところがあります。将棋ソフトに感化されて、攻めへの意識を高め、結果を出している他のプロ棋士はいます。しかし、渡辺明竜王はもともとその部分を大きな強みの一つとして勝負してきた棋士なので、やはり将棋ソフトから学べることは相対的に少ないと思います。

 


渡辺明の思考: 盤上盤外問答

 

佐藤天彦名人の場合

一方で、佐藤天彦名人は、(渡辺明竜王と比べると)研究家やスペシャリストとしてのイメージが薄いです。あくまでも、渡辺明竜王と比較すると・・・という話です。竜王の場合は「徹底したデータ調査」「(ぬいぐるみなどの)収集癖」「好き嫌いの激しさ」「理論化への志向」など、研究家やスペシャリストになりやすい性質がこれでもかというぐらいに重なっている感じです。それに比べると、佐藤天彦名人のスペシャリスト的な性質はやや弱そうです。

もちろん、佐藤天彦名人が「横歩取り」を得意としていることは有名です。ものすごく研究しているでしょうし、結果を出しているので、横歩取りのスペシャリストと言ってもいいと思います。しかし、忘れてはならないのは、横歩取りを外された時でも佐藤天彦名人は非常に強いということです。佐藤天彦名人の本来の強みが、おそらく別のところにあるからです。

 

それでは、佐藤天彦名人の本来の強み(それも、トップ棋士の中でも際立つような強み)というのは、どのような点にあるのでしょうか?

この問いに対するヒントとして、渡辺明竜王の次のコメントを引用します。

彼の(佐藤天彦名人の)形勢判断は、棋士の平均よりも互角の範囲が広いんだと思います。

『将棋世界2015年11月号、p.24』

これが本当だとすると、佐藤天彦名人の大きな特徴です。また、名人の将棋観がよく現れていると思います。しかし、形勢判断が細かくなくて大らか(悪く言えば大雑把)であることは、強みというよりもむしろ大きな弱点にはならないのでしょうか?

 

ところで、中原誠十六世名人が楽観派であったことは有名です。楽観的であることも、「形勢判断における大らかさ」と捉えることができます。高いレベルの将棋では、わずかな優勢を得るために激しく競り合いますので、形勢判断の大らかさはやはり将棋の弱さに結びつくと考えてしまいそうです。しかし、ご存じのように、中原誠十六世名人は一時代を築いた将棋界の歴史の中でも指折りの大棋士です。

面白いのは、「形勢判断を細かくすることが必ずしも有利には働かない」という可能性があることです。それどころか、中原誠十六世名人や佐藤天彦名人の例を考えると、「形勢判断の大らかさが強みにすらなり得る」ことが示唆されます。

 

中原誠十六世名人や佐藤天彦名人に共通する(かもしれない)3つの強み

「形勢判断の大らかさが強みにすらなり得る」・・・これは一体どういうことなのでしょうか?

3つの観点から考えたいと思います。

 

1つ目は、中終盤の強さです。中終盤が同世代の奨励会員や他のプロ棋士と比べて強ければ、微差で悪いぐらいの局面から逆転勝ちすることが多くなります。そうすると、勝利の経験という実感を伴って、「このくらいはいい勝負」と判断される形勢の幅が広くなるのは自然です。中原誠十六世名人も佐藤天彦名人も中終盤の強さは共通しています。

しかし、この場合は「中終盤の強さ」が本質的な強みであって、「形勢判断が大らか」なことが有利な要素になり得ることの説明にはならないです。「中終盤が強く」かつ「形勢判断が細かい」であってもよいからです。

 

2つ目は、(「形勢判断」と対比して)「読み」の重視です。

まず、「読み」の力が強ければ、中終盤の強さにつながるのは当たり前です。この点で、1つ目の観点と2つ目の観点には重なる部分があります。

しかし、「形勢判断の精度」と「読みの深さ」には相反する部分もあります。

読みの打ち切りの判断は、打ち切る局面の形勢判断に左右されます。形勢判断が細かくなることで、読みの打ち切りが早くなり、読みの深さに影響が出る可能性があります。

また、それ以前の問題として「有力そうな手から読む」という時点で既に、無意識に形勢判断の要素が含まれています。形勢判断を厳しくすることで、読みの幅を狭くしていることは十分に考えられます。

 

深い読みに定評のある棋士として有名な佐藤康光九段の言葉から引用します。

私は対局中には「いま自分が有利か不利か」という形勢判断はあまり意識しないようにしている。

長考力(佐藤康光著、2015年)、p.23

衝撃的な内容です。これを読んだ時には非常に驚きました。「形勢判断は極めて重要で、決して軽視してはならない」という先入観があったからです。

この本では、「読みの深さ」と「形勢判断の精度」がトレードオフになるような状況についても書かれています。だからこそ、佐藤康光九段は意識的に形勢判断を少なくしています。

「形勢判断が大らかな方が深く読める」のであれば、強みとして立派に成立しています。

 


長考力 1000手先を読む技術 (幻冬舎新書)

 

3つ目は、形勢判断の評価軸の多様性です。

同じ互角でも、様々な互角があります。また、評価軸を増やせば増やすほど優劣の決定は難しくなります。

将棋の局面には単純な優劣だけではなく、「選択肢の広さ」「主導権の有無」「指し手の難しさ」「勝ちやすさ」「直感的に浮かびづらい手順かどうか」などの様々な要素があります。同じ局面でも、多様な視点から眺めることができます。

「互角の幅の広さ(あるいは形勢判断の大らかさ)」が「多様な視点を持つ」ことを意味するなら、それは単に大雑把という話ではなくなります。「多様な視点を持つことは強みである」という考え方も生まれます。

ご存じのように、中原誠十六世名人は「自然流」の異名を持つように、非常にバランスの取れた大局観の持ち主として有名です。

これは、2つ目の「読みの重視」とも関連しており、評価軸の多様性と読みの幅広さはリンクしています。なぜなら、「読み」と「形勢判断」は別々に切り離せないからです。

 

佐藤天彦名人の本来の強みは何か?

「佐藤天彦名人の本来の強みは何か?」という話の本筋に戻ります。

渡辺明竜王とは異なり、「序中盤の研究レベルの高さ」が佐藤天彦名人の本来の強みとは思えません。それよりはむしろ、佐藤天彦名人はもともと別の強みを持っていたので、その強みに「序中盤の研究レベルの高さ」が加わることによって飛躍した、と考えた方が納得できます。

 

本人の言葉を調べてみると、やはり序中盤は昔からの強みではなく、むしろ苦手意識を持っていたことが分かります。

昔はもっと終盤偏重型でした。序盤中盤が雑で、ほぼ終盤力に頼ったような指し方でした。奨励会三段までは序盤の勉強の仕方さえもよく分からないみたいなところもあって(笑)。

『将棋世界2015年10月号、王座戦挑戦者インタビューより』

 

佐藤天彦名人の強みについて、他のプロ棋士はどのような見方をしているのでしょうか?

阿久津主税八段「天彦君は差を広げられずについていく技術がずば抜けている。・・・相当苦しいと思うけど、天彦君の中では頑張れるレベルなんでしょうね。懐が深くて、中原名人みたいな大局観だ。」

『A級順位戦総括 & 名人戦展望対談(将棋世界2016年5月号)』

村山慈明七段「以前からですが、天彦は自分の将棋に相当自信を持っています。悪手を指した感触のないような多少の不利なら、終盤の粘りと逆転術で勝つことができると見ているのではないでしょうか。」

『将棋世界2015年11月号、p.24』

戸辺誠七段「以前の天彦さんは、腕力はあったけど序盤だけは苦労していた。順位戦でもよくベテランの先生のうまさにやられていた。そこが改善されたのだと思います。」

『将棋世界2016年4月号、p.28』

このように、他のプロ棋士の目線でも、中終盤の評価の方が高いことが分かります。

 

特に、佐藤天彦名人の中終盤の粘りや逆転術には定評があり、『佐藤天彦の積み重ねの逆転術(将棋世界2016年3月号)』という講座になっているぐらいです。この講座では、形勢が悪い局面での様々な考え方のパターンについて解説されているのですが、最後にとても印象的な一文があります。

将棋というゲームは勝ち負けを争うのが前提ですが、いろいろな要素や価値観があります。優勢のときにうまい勝ち方をするとか、互角のときに豪腕で乗り切るとか。それと同じで、悪いときにどう耐えるか、しのぐかも将棋の醍醐味のひとつなのです。そう思えれば、非常に苦しい局面でも興味をもって考えられるでしょう。僕も実際、そういう気持ちで悪い局面を指しています。

『佐藤天彦の積み重ねの逆転術(将棋世界2016年3月号)』

逆転勝ちが得意な棋士の中でも、致命傷を避けるのが得意なタイプ、開き直って悪い局面を面白がるタイプ、不屈の精神力を持っているタイプ、逆転の雰囲気を作るのが上手いタイプなど、その特徴は様々だと思います。

佐藤天彦名人はどのようなタイプに見えるでしょうか?

いずれにしろ、佐藤天彦名人が昔から得意だったのは中終盤の方で、特に逆転術に強みがあるというのが事実のようです。

 

将棋ソフトの逆転術に欠けている2つの要素

コンピュータ将棋

ところで、悪い将棋をどのように逆転したらいいのか、将棋ソフトの読み筋や評価値は教えてくれるのでしょうか?

ある程度は教えてくれるでしょうが、将棋ソフトの一番の強みは逆転術ではないと思います。

 

その1つ目の理由は、評価関数が逆転術のためには最適化されていないからです。

将棋ソフト同士の対局では、「評価値が500を超えるとまず逆転しない」というような基準があるようです。そうすると、将棋ソフトにとって最も重要なのは、評価値で500以上の差をつけられないことになります。このことから、将棋ソフトは評価値500以内の領域における形勢判断の精度が高くなるように評価関数が最適化されていると予想できます。

しかし、「将棋の逆転術」という言葉を使うときに、普通はもっと形勢が離れた局面からの逆転を意味することが多いと思います。

 

2つ目の理由は、評価値という唯一の判断軸を設定しているからです。

評価関数自体は無数の判断要素が含まれている複雑なブラックボックスです。しかし、評価値という数字に落とし込む時点で、判断軸の多様性は失われます。

たとえば、評価値がほぼ同じで、具体的な指し手が非常に難しい局面と、指し手が分かりやすい局面の2つがあるとします。このような場合、指し手の難しさに関係なく、評価値がたった1点でも有利な方をソフトは選ぶでしょう。将棋ソフトは、「手順の難解さ」「勝ちやすさ」などの価値観を持っていません。

 

これらの2点から、将棋ソフトの一番の強みは逆転術にはないと予想できます。それに伴い、将棋の勉強法や研究法としても、将棋ソフトで一番強化しやすいのは逆転術の部分ではないと考えられます。

 

佐藤天彦名人と将棋ソフトのまとめ

佐藤天彦名人の強みは、中終盤での粘りや逆転術にあります。また、その強みは価値観や評価軸の多様性に基づいている可能性があります。一方で、形勢判断における将棋ソフトの強みは評価値500以内の領域にありますし、逆転に必要な視点の一部は明らかに抜け落ちています。したがって、佐藤天彦名人の本来の強みと、将棋ソフトで最も強化できる部分は一致していないと考えることができます。

このことから、佐藤天彦名人の相対的な弱みの部分を、将棋ソフトでの研究が上手く補っている可能性が十分に考えられます。

 

羽生善治三冠と棋譜データベース

羽生善治
出典:https://kifulog.shogi.or.jp/ouza/63_05/

コンピュータが将棋界に大きな影響を与えたのは、将棋ソフトが初めてというわけではなく、実は昔にも「棋譜データベースの整備」という大変革がありました。

棋譜データベースの存在によって、序盤定跡の精密化、「新手一生」から「新手一局」の時代へ、勝率イメージによる戦型選択、など将棋界の環境ががらっと変わることになります。

この辺りのことは、「新しいテクノロジーの影響」という括りで別の記事でも書いています。

将棋界の大きな流れを読む~「技術革新」と「夢とビジョン」~
将棋界の大きな流れを考えたときに、何らかの「技術革新」が大きな影響を与えていることが多いと気付きます。 技術革新というと科学技...

 

棋譜データベースが整備されたのは、羽生善治三冠が20歳ぐらいの頃なので、羽生世代の活躍と密接に関わっていると思います。

そして、羽生世代で最も大きな成功をおさめたのがもちろん羽生善治三冠なので、棋譜データベースの恩恵を最も受けた一人であると言えます。羽生三冠は棋譜データベースがあろうがなかろうが最強の棋士だったと思いますが、棋譜データベースの出現が当時の将棋界において大きな環境要素になったのは間違いないです。

 

羽生善治三冠は、過去の寄稿やインタビューを集めた『羽生善治 闘う頭脳(2015年、文春ムック)』という本の中で、「覚える」と「発想する」のスイッチを切り替えるという表現を用いています。

「覚える(記憶)」と「発想する」は両方とも必要で、車の両輪のように働かせるのが肝要というのがその趣旨です。

しかし、個人の才能が「記憶」の方に偏っている場合もあるし、「発想」の方に偏っている場合もあると思います。もう片方が相対的に弱点になるというわけです。

じゅげむの個人的な意見ですが、羽生善治三冠の本来の強みは、どちらかというと「発想」の方にあると思っています。

私はプロになるまで、いわゆるデータについては、まったく勉強や研究をしていませんでした。すべての手を、実戦の場でとにかく一から考えていたのです。それでほとんどの対局において序盤でリードを許してしまい、中盤と終盤で何とかもがいて接戦にしていたという状態でした。プロになって序盤の勉強をはじめ、一年ぐらい経ったときに、やっと考えることと知識がかみ合い始めました。車の車輪が両方とも動いたという気がしたのです。

羽生善治 闘う頭脳 (2015年、文春ムック)

このように、もともと羽生善治三冠はデータに頼らずに自分の頭で考えるタイプです。

記憶力というものは、「覚える能力」だけではなく、「自分で発想した新しい手順と、データとして覚えている既知の手順のどちらを選びたがるか」というような性格的な傾向も含まれています。

羽生善治三冠が新しいチャレンジを好む性格であることはご存じだと思います。この点でも、どちらかというと「記憶」よりは「発想」の方がやや優位ではないかと考えられます。

 


羽生善治 闘う頭脳 (文春ムック)

 

渡辺明竜王と比べると分かりやすいのですが、竜王の方がわりと保守的で確実性を求めます。

何か新しい発想を思いついても、しっかりと研究して覚えてから実戦に投入するパターンが基本のようです。すなわち、渡辺明竜王の将棋の基本として、「発想」よりは「記憶」に重きを置いた戦略があります。

逆に考えると、羽生善治三冠の将棋はやはり「記憶」を最大限に生かすようなスタイルではないと思います。渡辺明竜王のようなタイプと比較すると、「記憶」の部分は相対的な弱みになっているはずです。実際に羽生善治三冠は、データが重要となる最新流行形よりも、タイトル戦番勝負のカド番でよく見せるようなやや力戦調の将棋の方がよく勝っている印象です。

 

このように、「記憶」あるいは「データの勉強や研究」は、羽生善治三冠にとって一番の強みではない部分になります。

羽生善治三冠の相対的な弱みが、氏の言葉通りに「データの勉強や研究」であったとすると、棋譜データベースはその弱点を補うのにぴったりのテクノロジーだった可能性があります。

あくまでも、最高峰のレベルでの相対的な弱みですよ? 羽生善治三冠の記憶力が弱点と言っているわけではないです。

羽生善治三冠にとって、自分の頭で考えて新しい「発想」を産み出すことが、利き手の右手を使うようなものだとします。そうすると逆に、「記憶」あるいはデータの勉強や研究は、利き手とは反対側の左手を使うことに対応します。そして、どうやら将棋というゲームは、右手も左手も器用に使えることが重要のようです。さらに言うと、右手と左手を同時(?)あるいは交互に使うことによって素晴らしい絵が描けるらしい・・・。

 

新しいテクノロジーをどのように味方につけるか?

最後に、将棋ソフトと棋譜データベースを「新しいテクノロジー」という括りでまとめて、共通する課題について書いて締めくくります。

新しいテクノロジーが生まれると競争環境が変化します。激変する場合もあります。そして、まず大事なのが「その変化が自分にとって有利に働くか不利に働くか」の判断です。

また、どのように有利にできるかが鍵となります。

一つの考え方として、「自分の弱点を補うためにテクノロジーを活用する」という方法は有力だと思います。

そのためにはまず、自分がどのようなタイプかを把握することが必要です。

持って生まれた才能は変えることができないし、また、やみくもな努力も効率が悪い。自分の特徴に気づき、適切な努力をすることこそが、これまでの自分を変えるための最良の方法なのではないだろうか。

覆す力(森内俊之著、2014年)』の前書きより

森内俊之九段は自著の中でこのように述べています。そして、同じ本の中で、自分がどういうタイプの棋士なのかを理解するために「島研」での経験が役に立ったと書かれています。島明九段、佐藤康光九段、羽生善治三冠の3人と比べることで、自分の本来の強みと相対的な弱みへの理解が深まったというわけです。

 


覆す力 (小学館新書)

 

不幸にもどうやら環境変化が自分にとって不利に働きそうだったら?

環境変化に対する人間の行動は、①環境への適応、②新天地の開拓、③現在のスタイルを固持、の3つのパターンに分かれます。

新天地の開拓は有力です。渡辺明竜王の阪田流向かい飛車などはその模索だと思います。

まさか渡辺明竜王が阪田流向かい飛車を指していたとは・・・
2016年9月8日の王将戦二次予選、▲佐藤天彦名人 vs △渡辺明竜王戦の棋譜を見てびっくりしました。 渡辺明竜王が阪田流向かい飛車を...

もし新天地を切り開けないならダメージコントロールをするしかないです。不利になることは承知で、それが致命的にならないように。気分的にはつらいですが、不利を認めてのダメージコントロールも立派な対応策です。

 

    

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将棋ソフトで研究すれば勝てるのかを、渡辺明竜王がたった一言で説明しているけど・・・ https://shogijugem.com/soft-kenkyu-3615 Sat, 17 Sep 2016 02:30:45 +0000 https://shogijugem.com/?p=3615 将棋ソフトとプロ棋士の関係は、最近の将棋界の大きなテーマの一つです。 最も刺激的で荒れやすいテーマでもあります。 ソフトでの研究について、新刊の『不屈の棋士』からプロ棋士の言葉を引用します。   羽生善治さん「...

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将棋ソフトとプロ棋士の関係は、最近の将棋界の大きなテーマの一つです。

最も刺激的で荒れやすいテーマでもあります。

ソフトでの研究について、新刊の『不屈の棋士』からプロ棋士の言葉を引用します。

 

羽生善治さん「ソフトの使い方としては、ある特殊な場面や条件で調べるのが一番いいと思っています。・・・終盤だけですね。最後の詰みがあるかないかについては本当に正確無比なので。序盤、中盤をソフトで調べることはありませんが・・・」

渡辺明さん「10年前から、詰みのある・なしチェックには使っていました。・・・ソフトが強くなったいまも評価値をチェックするのはメインではない。・・・評価値は自然に出るので見ますけど、「ふーん」という感じで、かなり上から目線です。その数値は本当? みたいな

森内俊之さん「自分の指した将棋で疑問があれば、ソフトに解析させてみたりはします。・・・基本的にソフトの評価値というのはまちまちで、一つの意見として聞くのはいいと思いますが、人間の感覚とはかけ離れた数値が出ることが多いので鵜呑みにはできません。・・・手っ取り早く一つの意見を出してくれるのは便利ですよね。」

不屈の棋士(大川慎太郎著、2016年)

 

このように、ソフトをどのように使うかは、トップ棋士でも人によってさまざまです。

個人的な興味としては、

 

1.ソフトの形勢判断はどのくらいの精度なのか?

2.最近のプロ棋士の新手はどのくらいの割合がソフト発なのか?

3.ソフトで序盤や中盤を研究すれば勝てるのか?

 

これらの3点が最も気になります。

今回の記事は、特に3番目の疑問についてです。

 

将棋ソフトで序盤や中盤を研究すれば勝てるのか?

この疑問は、渡辺明竜王に一言で答えてもらいましょう。

 

渡辺明竜王「現状ソフト研究が浸透していても、勝つ人は以前と変わっていません」

不屈の棋士(大川慎太郎著、2016年)

 

これが結論のようです。シンプルかつ容赦がない。竜王が言うと説得力ありますね。

 

しかし、ソフト研究がプロ将棋界に影響を与えていないわけではありません。ソフト発の新手は多くなっていますし、序盤の戦法にも大きな影響を与えています。

相矢倉▲3七銀戦法つぶし、居角左美濃急戦、角換わり腰掛け銀の▲4八金型、相掛かり力戦の飛車先交換保留など、ぱっと思いつくだけでもいろいろとあります。

 

とはいえ、竜王の言葉によると、勝敗に決定的な影響を与えているわけではなさそうです。

どういうことなのでしょうか?

引用した『不屈の棋士』を読んで、その理由をいくつか考えてみました。

 


不屈の棋士(大川慎太郎著、講談社現代新書、2016年)

 

将棋ソフトで研究できる領域は限られる

将棋ソフトで研究して効果的なのは、

序盤の終わりから中盤の入り口、もしくはガチガチの定跡形の課題局面

に限られるようです。

 

中盤で手数が進んでいくと、分岐の数がどんどん多くなってしまうので、ソフトで研究した局面になる可能性が低くなります。こうなると効率が悪いので、ソフトで研究しても成果が上がらなくなります。

 

例外は、最新流行形などの定跡形です。ガチガチの定跡形では、中終盤まで想定どおりに進む場合が多くなるので、ソフトで研究する価値があります。

とはいえ、ソフトを使う棋士だと知られていると、研究を察知されて定跡を外される場合も多いようです。

 

将棋は中終盤で勝敗が決まることが多い

これは、ソフトの序盤や中盤がどれほど強いかということよりも、むしろ将棋というゲームの性質にあります。

将棋は優勢でも一手で簡単に逆転してしまうゲームです。

 

序盤や中盤の研究で優勢になったとしても、中終盤で優勢をキープできる技術がないと負けます。

そして、中終盤で優勢をキープできる技術をもっているのは強い棋士で、ソフトの有無に関係なく勝っているということでしょう。

 

将棋ソフト発の新手はみんな知っている

研究での優位は、あくまでも情報による優位です。いったん新手が指されて情報がオープンになってしまうと、価値が一気に下がってしまいます。

それどころか、最近では公式戦で指される前にソフト発の新手をみんな知っているということがあるようです。

 

まず、プロ棋士といえども、一般に公開されていたり市販されている将棋ソフト「以外」を簡単に手に入れることはできないようです。

 

すると、みんな同じようなソフトで研究することになります。

結果として、ソフト研究をしたからといって差はつかなくなります。

 

将棋ソフトの使用にはデメリットもある

よく言われるのが、「将棋ソフトを使うと自分の頭で考えなくなる」ということです。

将棋の研究には、情報収集とトレーニングの両面があります。

将棋ソフトで情報収集の効率は上がるが、トレーニングの効率は下がるということです。

 

ソフト研究に力を入れて、情報という果実を得ても、

頭脳スポーツである将棋でトレーニングがおろそかになると勝てなくなります。

 

ソフト研究はメリットもデメリットもある方法です。

誰もが勝てるようになる魔法ではなく、
ツールの一つとして上手く活用できれば、成果が上がるということでしょう。

 

将棋ソフト研究についてのまとめ

将棋ソフト研究は、現状では勝敗を左右する決定的な要因とはなっていないようです。

 

その理由として、

1.ソフト研究は、序盤の終わりから中盤の入り口ぐらい、あるいは定跡形に限られる。

2.将棋の勝敗を決めるのは、中終盤の技術の差が大きい。

3.将棋ソフト発の新手は、ソフトを使う他のプロ棋士も知っている。

4.ソフト研究には、トレーニングがおろそかになるデメリットもある。

などが考えられます。

 

しかし、今後どうなるかは不明です。

将棋の「読み」の本質を探る~プロ棋士とコンピュータの読みと最善手~
「コンピュータ将棋の読みと形勢判断~そして、もう一つの考え方~」の続編です。 前回の記事では、「読み」と「形勢判断」と「読みゼロの形勢...

の記事で書いたように、将棋は最善手だけを考えるゲームではなく、「相手が最善手と思う手」を読めないと不利になるゲームです。ソフト感覚がプロ棋士の間で広まり、それが共通認識として理解されればされるほど、ソフト研究の重要度はますます高くなるでしょう。

 

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渡辺明の勝利の格言ジャッジメント 飛 角 桂 香 歩の巻(NHK将棋シリーズ、2016年)

 


渡辺明の勝利の格言ジャッジメント 玉 金 銀 歩の巻(NHK将棋シリーズ、2016年)

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将棋界の大きな流れを読む~「技術革新」と「夢とビジョン」~ https://shogijugem.com/technology-innovation-dream-vision-2246 Wed, 22 Jun 2016 19:36:14 +0000 https://shogijugem.com/?p=2246 将棋界の大きな流れを考えたときに、何らかの「技術革新」が大きな影響を与えていることが多いと気付きます。 技術革新というと科学技術に関連した新しいテクノロジーを真っ先に思い浮かべますが、将棋の盤面の技術は、希有な能力を持っ...

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フクロウ

将棋界の大きな流れを考えたときに、何らかの「技術革新」が大きな影響を与えていることが多いと気付きます。

技術革新というと科学技術に関連した新しいテクノロジーを真っ先に思い浮かべますが、将棋の盤面の技術は、希有な能力を持った天才的な個人によって技術革新が進むこともあります。

 

将棋界に限らず、現代社会はテクノロジーによって価値観が引っ張られているという面があります。新しいテクノロジーが生まれると、そのテクノロジーが映す未来に、多くの人々が夢やビジョンを抱くようになるという具合です。

逆に、夢やビジョンが先にあり、それらを実現するために新しいテクノロジーを開発するという順番もありえます。実際に、夢やビジョンが先で、テクノロジーが後、という時代もあったと思います。

しかし、最近の世の中では、まず先にテクノロジーがあって、そこに人々が夢を乗せるという流れが多いのではないでしょうか。そして、人々の夢やビジョンの力が集合的に働くと、新しい時代を切り開く原動力となります。

 

それでは、将棋界の技術革新はどのように進んでいるのでしょうか?

 

それが本記事のテーマです。時代を象徴する出来事を時系列に並べて、技術革新と将棋界の流れについて考えたいと思います。

 

谷川名人の誕生と終盤の技術の向上 1983年~

棋譜データベースの整備と羽生世代 1990年頃~

藤井システムの「革命」と新戦法への夢 1995年~

一手損角換わりの流行 2003年~

コンピュータ将棋の飛躍と電王戦 2010年~

糸谷竜王と山崎叡王の誕生 2014年、2015年

次の時代の技術革新の展望 2016年~

 

谷川名人の誕生と終盤の技術の向上 1983年~

「光速の寄せ」が代名詞である谷川浩司さんは、将棋の終盤の技術を変えたと言われます。

「技術革新」というとコンピュータ技術に代表される科学技術を思い浮かべますが、将棋は頭脳ゲームの世界なので、一人の天才が技術を前に進めてしまうこともあります。

その谷川浩司さんが21歳の若さで名人位を奪取したのが1983年6月です。

しかし、「技術革新」と「夢やビジョン」の関係性で言うと、「終盤の強さが圧倒的なら無双できる」というようなイメージ自体は、もっと以前からあったのではないでしょうか?

終盤の技術については、「夢やビジョン」の方が先行していて、それを具体的な「技術」として谷川浩司さんが盤上で表現した、という順番のように見えます。

米長邦雄さんが、詰将棋の古典傑作集である『詰むや詰まざるや』を「全部解けば最低でも四段になれる」「私の修業時代に全問解いた」と語ったことから、奨励会員がこぞって挑戦していた時代でもあります。

 

棋譜データベースの整備と羽生世代 1990年頃~

棋譜データベースの整備は、将棋界におけるテクノロジーの進歩の一つです。

この新しいテクノロジーをいち早く活用したのが羽生世代です。

実は棋譜がデータベース化された正確な時期を知らないのですが、どうやら羽生善治さんが20歳前後の時期らしいです。すると、1990年頃ということになります。

そして、定跡書の金字塔『羽生の頭脳』の初版が1992年です。

棋譜データベースの活用による定跡の整備が一つの形になったと言えるでしょう。あるいは、『羽生の頭脳』シリーズの出版が、その後の定跡の整備の流れを加速させ、棋譜データベースの活用をさらに広めたと言えるかもしれません。

 

棋譜データベースの活用がプロ棋士の間で広まるようになったのは、単に棋譜データベースがシステムとして整備されたことだけが理由ではなかったと思います。

その前に、谷川浩司さんや米長邦雄さんなどの影響によって、プロ将棋界全体として終盤の技術が大きく向上したことも理由の一つなのではないでしょうか。

終盤の技術が全体的に上がると、終盤で逆転が難しくなるので、序中盤から差を広げられないようにする必要があります。

そのような要請と、棋譜データベースというテクノロジーが結びついて、将棋の序盤を見直そうという大きな流れになったのではないかと思います。

「必要は発明の母」と言われるように、何かしらのニーズがあって、それを原動力にして技術革新が起こるというのは自然な流れです。序盤の見直しのニーズが高まっていた所に、棋譜データベースが整備されたとなると、若くて野心的な棋士達が飛びつくのは当然です。

「修業時代は、まずは終盤の勉強、それから序盤の勉強」というのは、将棋の勉強法としては王道だと思うのですが、羽生世代の棋士達にとっては時代の流れがそれを後押ししました。

 

藤井システムの「革命」と新戦法への夢 1995年~

新しい時代は一人の天才によってもたらされる場合もあります。藤井猛さんが創り出した新戦法である藤井システムは、将棋界に新たな風を吹き込むことになります。

藤井システム以後、当時の常識ではあり得ないと思われていた戦法が次から次へと生まれ、将棋の根本的なセオリー自体にまで変容をもたらしました。

 

本記事の冒頭で述べた「技術革新」と「夢とビジョン」の関係性について言うと、藤井システムについては、「技術革新」の起こりと、多くの人々が「夢」を抱くようになった時期のタイムラグが比較的短いです。

藤井猛さんによる居飛車穴熊対策としての藤井システムのデビュー局が1995年12月です。そして、藤井さんが当時の谷川竜王から竜王位を奪取したのが1998年なので、その間わずか3年程度ということになります。藤井システムの登場は、序盤戦法における「革命」と言われますが、その起こりが1995年として、藤井さんが竜王位を保持しており絶大な影響力を持っていたのが1998~2001年頃です。

当時の将棋界の雰囲気をよく知っているわけではありませんが、藤井竜王に影響されて振り飛車党になった奨励会員は相当な数だったようです。また、四間飛車ではなくても、藤井竜王のように新戦法で一山当ててやろうと考えた棋士は多かったのではないかと思います。

 

しかし、この時代に、藤井猛さんだけが画期的な新戦法を開発したわけではありません。

新戦法開発の大きな流れがこの時代にはあって、藤井システムは大きな成功を収めた代表例と考えることもできます。

実際に、ゴキゲン中飛車を開発した近藤正和さんの四段デビューが1996年、中座真さんが横歩取り8五飛戦法を初めて指したのが1997年など、これまでの常識を変える新戦法を開発しようとする試みは、藤井システムだけではなく同時期にいくつも生まれています。

この原因は、一つ前の時代の技術革新である「棋譜データベース」の反動でしょう。従来からある矢倉などの定跡があまりにも整備されすぎてしまったために、あるいは最新情報へのアップデートの必要性が早くなりすぎてしまったために、その枠組みから飛び出そうとするモチベーションが強く働いたはずです。

 

このように、将棋界の大きな流れとして、たしかに新戦法を模索する潮流はいくつも生まれつつありました。とはいえ、藤井システムはその中でも別格です。

将棋界全体に影響をおよぼすレベルの「技術革新」としては、やはり藤井システムでしょう。もし、藤井システムのような完成度、高度な体系性、革新的な思想がなかったら、将棋界の流れを大きく変えることはなく、せいぜい「有力な一つの戦法が発見された」という程度の影響力にとどまったと思います。

 

一手損角換わりの流行 2003年~

藤井システムを中心とした新戦法の開発の流れは、さらに大きなうねりとなり、「一手損角換わり」という象徴的な戦法の流行に繋がります。

一手損角換わりは、後で述べる「糸谷竜王と山崎叡王の誕生」とも縁の深い戦法です。

 

一手損角換わりとは「効率性」の観点から捨てられていた戦法の代表格です。

その名が示すように、序盤からあえて一手損(しかも後手番で)するという、おおよそ理があるとは思えない戦法です。

本記事のテーマである「技術革新」の観点から言うと、「過去に捨てられた形を拾う」技術と言っていいかもしれないです。

 

藤井システムの時代には、新戦法を成立させるための「ロジック」があったと思います。決して、「駄目そうな形でも拾ってみる」という意識ではなかったはずです。

むしろ、藤井システムは卓越したロジックの組み立てによって、因習的な従来戦法の枠組みを打破したとも言えるわけです。

たとえば、藤井システムの「居玉」は従来の常識に反します。しかし、①居玉の方が端攻めをした場合に戦場から遠い、②相手が穴熊に手数をかけている間に攻撃に手数をかけるべき、など「一見するとそれまでの常識とは異なるが、説明されれば十分に納得できるロジック」を持ち合わせた戦法だったわけです。

 

しかし、一手損角換わりまで行くと、もはや「ロジック」が行き過ぎて「何でもあり」になってしまった感があります。すなわち、ロジカルな能力を高めることによって、屁理屈も通るようになってしまったということです。

実際に、一手損角換わりは勝率4割の戦法として有名です。

たしかに、普通の角換わりと比べて、「棒銀、早繰り銀、腰掛け銀などのバリエーションが多彩で可能性に富んでいる」と言えなくもないですが、結局のところ「効率性」の観点から序盤の一手損は不利なわけで、それは勝率に如実に表れているというわけです。

 

コンピュータ将棋の飛躍と電王戦 2010年~

最近のコンピュータ将棋が象徴しているのは「シンプルな強さ」の追求です。

「シンプル」という言葉をあえて使った意味は、技術革新の成果がレーティングや評価値といったシンプルな数値に落とし込まれているために、「強さ」とは別の「個性」が隠されてしまっているからです。

 

時期的には、女流のトップ棋士である清水市代さんに、将棋ソフトの「あから2010」が勝利した2010年ぐらいから大きな流れになっています。この流れが、2012年の米長邦雄 vs ボンクラーズ戦、2013~2015年の3回にわたる電王戦(プロ棋士 vs 将棋ソフトの5対5の団体戦として)と続きました。

電王戦が将棋界のみにとどまらない大きなニュースになったのは、「将棋ソフトが現役のプロ棋士に勝利した」という1点に尽きます。

コンピュータ将棋の研究開発の歴史はもっと長いのですが、電王戦で騒がれたのはコンピュータ将棋の「強さ」と言っていいでしょう。「強さ」が先にあり、その上でコンピュータ将棋の特徴などが議論されたわけです。

 

コンピュータ将棋はしばしば黒船に例えられます。コンピュータ将棋界とプロ将棋界はもともと別の歩みをしていて、力をつけたコンピュータ将棋が、突如として黒船のように現れたというわけです。

しかし、歴史に必然があるように、「一手損角換わりの流行」から「コンピュータ将棋と電王戦」までの流れにも何かしらの必然はないのでしょうか?

 

一手損角換わりが流行した時代の「何でもあり」な風潮を肯定的に捉えると「あらゆる可能性を探る」となります。

少々こじつけになりますが、あらゆる可能性を模索した結果として、それが強さに結びつくのであれば、プロ将棋界とコンピュータ将棋界の歩みはリンクしていたことになります。

そのことは、次で述べる糸谷竜王と山崎叡王の誕生ともリンクしています。

 

糸谷竜王と山崎叡王の誕生 2014年、2015年

電王戦と同時期の将棋界のビッグニュースと言えば、糸谷竜王の誕生です。竜王戦の最終局が2014年12月なので、第3回電王戦と電王戦FINALの間の出来事です。

糸谷将棋の特徴は何かと言われると、「薄い玉を好む」「特に入玉を好む」「一手損角換わりのスペシャリスト」などです。特に後手番でその傾向が顕著だと思うのですが、玉の堅さや効率を重視する現代将棋の対極にある将棋です。

 

一方、山崎初代叡王の誕生はつい最近の2015年12月の出来事です。

山崎将棋の特徴は、「独創的」「他人と同じことをするのを好まない」「変な形をまとめるのが得意」などです。また、現在多用しているかどうかはともかく、一手損角換わりの棋書を書いているぐらいなのでスペシャリストの一人です。

 

糸谷哲郎さんと山崎隆之さんは仲の良い棋士同士として知られていますが、二人の将棋には共通点が多いです。「現代将棋の主流派ではなく異端」「変な形をまとめるのが得意」「一手損角換わりを好む」などです。

 

一手損角換わりが、一つの時代を象徴する戦法であることは既に述べました。

 

「変な形」の「変」とは何でしょうか?

それは「見慣れない」、つまり「頻度が低い」ということです。

「変」というのは「善悪」の判断基準というよりも、むしろ「頻度」のことです。

そして、なぜ頻度の違いが生まれるかというと、「効率」や「確率(勝率)」を重視すると、同じような形になりやすいからです。頻度が低い形は、経験が少ないので読みを省略できない、直感的にわかりづらい、という理由だけでも敬遠されがちです。

 

つまり、糸谷将棋や山崎将棋は、「効率的な観点からは真っ先に捨てられる形」「他の棋士が直感的に捨ててしまうような形」を拾ってあげる将棋、として特徴づけられるわけです。

この特徴は何かに似ていませんか?

それは、コンピュータ将棋です。コンピュータ将棋は、プロ棋士が一瞥もしないような手を含めて、あらゆる手の可能性を網羅的に読むことが強さの源泉です。

 

コンピュータ将棋の飛躍と、糸谷哲郎さんと山崎隆之さんの両棋士の活躍に、技術的な意味での関係は全くないように見えます。それどころか、糸谷さん、山崎さんはコンピュータ将棋からは最も離れたところにいるタイプの棋士です。

しかし、「あらゆる可能性の模索」(というよりは、通常の読みでは捨てられてしまう局面を積極的に拾う)が「強さ」に繋がるという点で、不思議な共通点があります。

 

次の時代の技術革新の展望 2016年~

ここからは、私の未来予想です。

次の時代の技術革新のキーワードの一つは「個性」になると思います。

シンプルな意味での「強さ」を追うことが、技術革新の最先端ではなくなるということです。

コンピュータ将棋の「強さ」への追求は、プロ棋士レベルの強さに届いたことによって一段落すると思います。開発者の情熱は別の方向に「も」向かうことになるでしょう。

 

羽生善治さんという絶対的な「強さ」を持つ棋士の動向も、象徴的な意味合いで時代を映すことになりそうです。

羽生善治さんの特徴と言えば、「戦法を選ばないオールラウンダー」「棋風に特徴がないことが特徴」とよく言われます。ある意味で「個性」からは最も離れた棋士です。

 

将棋の盤上の個性は「棋風」と呼ばれます。

そして、才能の世界である将棋界において、棋風を決める大きな要素が「才能」です。

ちなみに、この場合の「才能」とは「強さ」を決めるものではなく、「個性を決めるものとしての才能」という意味合いです。

 

「個性」「棋風」「才能」といったキーワードを、「技術革新」につなげるとすると、どのような展望が見えるでしょうか?

 

一つはコンピュータ将棋界における将棋ソフトの「個性」の研究でしょう。たしか、ドワンゴの川上会長が電王戦の記者会見で「個性」の話をしていた記憶がありますし、おそらく次の研究テーマとしては主流の一つになると思います。

この研究の発達によって、人間の「棋風」も数値化されたり可視化されるようになるはずです。既に「受けと攻めの比率」「悪手率」などの数値で、プロ棋士の特徴が分析されていますが、この手の技術が次の時代には飛躍するのではないでしょうか。

もう一つ、人間の「才能」に関しては、将棋というテーマに限定されずに、脳科学的なアプローチもあり得ると思います。脳科学というと、「またか」と思われるかもしれませんが、個人的に注目しているのは「感覚(五感という意味で)」についてです。

 

おそらく、数年のうちに「個性」あるいは「棋風」あるいは「才能」を象徴するような新テクノロジー、あるいは個人が現れるのではないでしょうか。とはいえ、1995年の藤井システムの1号局のように、最初の芽はこっそりと現れるかもしれないです。

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将棋の「読み」の本質を探る~プロ棋士とコンピュータの読みと最善手~ https://shogijugem.com/yomi-prokishi-computer-2005 Sun, 12 Jun 2016 02:05:18 +0000 https://shogijugem.com/?p=2005 「コンピュータ将棋の読みと形勢判断~そして、もう一つの考え方~」の続編です。 前回の記事では、「読み」と「形勢判断」と「読みゼロの形勢判断」の3つの概念を分けて考えることが、コンピュータ将棋を考える上での基本であると書き...

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「コンピュータ将棋の読みと形勢判断~そして、もう一つの考え方~」の続編です。

前回の記事では、「読み」と「形勢判断」と「読みゼロの形勢判断」の3つの概念を分けて考えることが、コンピュータ将棋を考える上での基本であると書きました。

 

前回の記事

コンピュータ将棋の「読み」と「形勢判断」~そして、もう一つの考え方~
将棋の技術を考える時に、「読みと形勢判断」とよく言われます。 この記事では、コンピュータ将棋の「読み」と「形勢判断」について考...

 

今回の記事では、その中の特に読みについての考察を深めます。

プロ棋士の読み、将棋ソフトの読み、私のようなアマチュアの読み・・・それぞれの特徴について比較分析をします。

 

本記事の目的の一つは、コンピュータ将棋についての理解を深めることです。

そしてもう一つの目的として、コンピュータ将棋という「人間の思考とは異質なもの」と比較することにより、「読み」の本質そのものに迫ることが狙いです。

 

棋力による読み筋の違いとコンピュータ将棋の特徴

将棋は基本的に対人ゲームです。

最近は、電王戦で将棋ソフトが猛威を振るっていますが、将棋の歴史の大部分は人間対人間の対人ゲームとしての将棋です。

 

「読み」に関して言うと、特にプロ将棋界おける「読み」の要素は、対人ゲームとして発展してきた性質が色濃く出ているように思います。

どういう意味かというと、一つの局面における「有力な候補手」がかなり限定されているように思うのです。

よく言われるのが、多くのプロ棋士が大抵の局面で有力手を3通りぐらいに絞っているということです。(もちろん、絶対にこの一手という局面もあるでしょうし、手の広い局面で5~6通りもの選択肢が有力という局面もあるでしょう。)

そして、これらの3通りぐらいはプロ棋士の間で大体意見が一致するとのことです。

たとえば、将棋の初手は30通りの指し手が考えられます。このうち、プロの公式戦では▲7六歩、▲2六歩、▲5六歩の3通りが圧倒的多数です。初手▲7八金のような手が指されることもありますが(参考:将棋戦法大事典の居飛車編)、先の3通り以外の手は最善手ではないだろう、というのが共通見解だと思います。

 

プロ棋士よりも棋力が低い場合、例えば私のようなアマチュアが指す指し手というのは、かなりバラつきがあるはずです。これは、必ずしも一人の人間が考える有力手の選択肢が多いということを意味しません。同じぐらいの棋力の人間を多く集めたときに、有力だと判断される指し手のバラつきが大きくなるという意味です。

たとえば、将棋倶楽部24で私と同じレーティング2000ぐらいの人間を100人集めたとします。そして、ある一つの局面について、有力だと思う候補手を3つ選んでもらいます。これらの合計3×100=300通りの指し手がどのくらいバラついているかを考えます。おそらく、プロ棋士100人で同じことをするよりも、そのバラつきはかなり大きくなるはずです。

アマチュア100人による、のべ300通りの指し手の中には、プロ棋士も有力だと考える手も含まれているでしょうが、同時にプロ目線ではありえない手も多く含まれているでしょう。

本当は駄目な手でも有力に見えてしまう。本筋から離れるような「素人くさい」手を指してしまう。すなわち、棋力が低いために有力手を精度よく絞れないということです。

 

一方で、将棋ソフトもある意味で「素人くさい」手を指すことがあります。プロ棋士が考える本筋や有力手から外れている指し手です。ただし、この場合は最近のソフトの強さを考えると、「棋力が低いため」というわけではなさそうです。

コンピュータ将棋の醸し出す「素人くささ」というのは、指し手を決めるときのアルゴリズムに由来します。すなわち、「網羅的に手を読む」という候補手検索の手法のためです。この場合も、「プロ棋士的な3つの有力手」よりも選択肢が広くなります。というより、(一定手数以内の網羅的な読みに基づいた)あらゆる選択肢を読んでいるので、コンピュータ将棋にはもともと有力手を絞るという発想がないということです。

 

「最善手」と「相手が最善と考える手」

将棋というゲームにおいて、もちろん「最善手」の追求は大事ですが、それと同じぐらい重要なのが「相手が最善と考える手」を読むということです。なぜなら、実戦で盤上に現れる指し手は「相手が最善と考える手」の方だからです。

非常に高いレベルの将棋では、「最善手」と「相手が最善と考える手(あるいは、実際に指される手)」との一致率が高くなるでしょう。逆に、レベルの低い将棋では、「最善手」ではない指し手の割合が多くなります。

 

将棋のプロ棋士は人数が限られています。現役棋士で170人ぐらいです。その中で、先ほど述べたような「プロ棋士的な3つの有力手」という共通認識があります。

これらの3通りぐらいの有力手がすぐに見えない、という状況がプロ将棋界で生きていく上で一番厳しいように思います。つまり、多くの棋士が指す可能性が高い手がわからないとなると、「読み」を10手先、20手先へとスイスイ進めることができないからです。

また、読みを入れたとしても、相手の指し手が全然当たらないということになります。

プロ棋士にとってまず重要なのは、「プロ棋士的な3つの有力手」を発見する能力が高いことです。これは、プロ将棋界という環境において「相手が最善と考える手」を予想する技術です。これは「最善手」を求めることと混同しそうですが、本質的には別物です。

強い棋士ほど、「最善手」と「相手が最善と考える手」の違いがわかっていると思います。「相手の読みを外して、かつ最善に近い指し手」を狙うというのは、両者の区別ができていないと不可能だからです。

 

仮にある一つの局面で、多くのプロ棋士がAかBかCの3つの指し手を有力だと考えているとします。しかし、実はその3つとも最善手ではなくて、他の指し手Dが最善という状況は当然考えられるでしょう。

この場合に、プロの公式戦において最も致命的なのが、A~Cの3つの有力手が見えていない、読めていないことです。もし最善手Dが見えていなくても、Dが盤上に現れる可能性はA~Cの3通りよりも低くなります。すなわち、最善手Dが見えないことよりも、相手が考える有力手A~Cが見えない方が罪が重いということです。

極端な言い方をすると、実戦の場で誰も気付けないような最善手は、あってもなくても勝敗には全く影響しないということです。

そして、実戦で気付きにくい最善手Dを発見できる棋士が強い棋士です。読みを外すことによる持ち時間のアドバンテージと、形勢によるアドバンテージの両方を得ることができます。

 

コンピュータ将棋と人間の読み筋の違い

コンピュータ将棋

出典 ex.nicovideo.jp/

 

人間とコンピュータ将棋の戦いでクローズアップされたのが、人間とソフトでは読み筋がかなり異なるということです。

これは、人間とソフトのどちらがより「最善手」に近づけるかという問題とは別の次元の話です。すなわち、「最善手は何か?」という問題というよりは、「相手が最善と考える手は何か?」という問題です。

 

人間もソフトもおそらく「将棋の真理を究める」というレベルの棋力には届いていません。人間は指し手を網羅的に読むことはできないですし、ソフトは網羅的に読むためにあまり長い手数の先を読むことができません。仮に、将来的にコンピュータの性能が大幅に上がって、50手先まで網羅的に読むことが可能になったとしても、まだまだ完璧にはほど遠いです。プロ棋戦の平均手数でも100手以上あります。

さらに、完璧と言うためには、持将棋などそもそも詰みに収束しない手順も想定する必要があります。また、持将棋でなくても、形勢が拮抗しながら何1000手と続くような手順も論理的にはありえるわけです。コンピュータ技術で将棋の真理を究めようとすると、これらの可能性の方が本質的には重大でしょう。

以前の記事でも最善手について考察しています。

最善手とは? ~絶対と相対~
「最善手」とは何でしょうか? このシンプルな問いが本記事のテーマです。 「最善手」とは、ある局面において「最も善...

 

何を言いたいかというと、理想的には「最善手」と「相手が最善と考える手」が一致すればいいのですが、人間もソフトも一致率には限界があります。そこで、特に人間にとっては「相手が最善と考える手」が重要になります。これが、対人ゲームとしての将棋です。

まどろっこしい書き方をしましたが、要するに、対人なら相手の人間が指しそうな手を予想しなければならない、対ソフトなら相手のソフトが指しそうな手を予想しなければならない、ということです。「最善手」を求める技術と同様に、「相手が最善と考える手」を予想する技術が、対人ゲームでは本質的に重要となります。

 

それでは、人間が指しそうな手と、ソフトが指しそうな手の違いは何なのか?

この点については、今後の記事で考えてみたいと思います。

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コンピュータ将棋の「読み」と「形勢判断」~そして、もう一つの考え方~ https://shogijugem.com/computer-yomi-keiseihandan-1997 Sun, 05 Jun 2016 02:39:15 +0000 https://shogijugem.com/?p=1997   将棋の技術を考える時に、「読みと形勢判断」とよく言われます。 この記事では、コンピュータ将棋の「読み」と「形勢判断」について考えています。「読み」も「形勢判断」も将棋界で昔から使われている用語ですが、実は人...

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将棋の技術を考える時に、「読みと形勢判断」とよく言われます。

この記事では、コンピュータ将棋の「読み」と「形勢判断」について考えています。「読み」も「形勢判断」も将棋界で昔から使われている用語ですが、実は人間の将棋よりもコンピュータ将棋の方が両者を明確に区別しやすいです。

これからの時代は、「読み」と「形勢判断」に加えて、「もう一つの形勢判断」を理解する必要が出てくると思います。

 

なお、形勢判断については、似た言葉で「大局観」という用語もありますが、ここでは大局観と明確に区別して「形勢判断」という言葉を用います。

 


マイナビ 将棋レボリューション 激指14

 

コンピュータと人間の読みと形勢判断

コンピュータ将棋

出展 ex.nicovideo.jp

 

今はコンピュータ将棋の棋力がプロ棋士のレベルに達しています。もう人間はコンピュータには勝てないとさえ言われています。

電王戦に出場するようなトップレベルの将棋ソフトは、トータルでプロ棋士に勝ち越していますし、さらに年々強くなり続けています。

ソフトを研究に利用しているプロ棋士も少なくないようです。将棋の技術を考える上で、コンピュータ将棋に注目する流れは今後も継続するでしょう。

 

コンピュータ将棋で興味深いのが、「読み」と「形勢判断」を全く別の概念として切り離せることです。

人間が考えるときには、読みと形勢判断は密接に繋がっています。脳の中で無意識に関連づけられているので、切り離そうと思っても不可能です。読むときに「有力そうな手から読む」という時点で既に、読みの中に形勢判断の要素が含まれています。逆に、形勢判断の中には「これから局面がどのように進みそうか」という読みの要素が含まれています。

読みと形勢判断を別の概念として客観的にとらえようと努力しても、人間の頭はそういう風にはできていません。それこそ生物として高度に発達した脳のシステムなのでしょうが、将棋というゲームを考える上で、別々に考えた方が都合が良い場合もあります。

 

将棋の「読み」とコンピュータ

将棋の「読み」の一つの究極形が、「すべての手順を読む」という方法です。大技というか荒技というか無茶苦茶というか、何と表現したらいいのか悩むところです。

ある意味で、完璧であり完成形であり文句のつけようがない。しかし、頭の良い方法かと言われると、これほど馬鹿なやり方があるのかという見方もできるでしょう。

しかし、現実というものは往々にして「頭の良さ」「スマートさ」よりも、単純な「パワー」が勝るということがあります。知的ゲームでパワーというのもおかしな話ですが、頭脳スポーツと言った方がニュアンスが伝わるでしょうか。

コンピュータ将棋のパワーとは、すなわち演算力です。これは現代のコンピュータ技術、半導体技術に基づいています。一秒間に何億手読めるのかは知りませんが、とにかく人間が読める手数と比べると桁違いです。また、ハードのスペックを上げることで、ある程度の桁までは簡単にパワーを上げることができます。

 

コンピュータ将棋の「読み」の凄まじさは、「手筋」という考え方を無意味なものにしてしまうほどです。

将棋には「手筋」と呼ばれるテクニックがあります。パズルのように一つ一つの手を組み合わせるテクニックです。これは通常、「継ぎ歩」「十字飛車」のように、よく現れるパターンとして認識されています。

しかし、コンピュータ将棋のように手を片っ端から読むというやり方をすると、よく現れるパターンも、そうでないパターンも含めて、「あらゆる手筋をすべて読んでしまう」ことになります。パターン化するのが困難で、手筋とは呼べないような手の組み合わせも当然読んでいます。それどころか、手と手の間に全く関連性がなさそうな、「馬鹿」な手順の組み合わせもすべて読んでしまいます。

「読み」を究極的な形にすると、「手筋」はすべて読みの中に含まれてしまう。実戦でよく現れるかどうかの「頻度」の問題や、手と手の間の「関連性」の問題は、すべての手を網羅的に読むならば意味がなくなります。

 

将棋の「形勢判断」とコンピュータ

コンピュータ将棋の形勢判断についてですが、あえて「大局観」ではなく「形勢判断」という言葉を使っています。

コンピュータ将棋の場合は、そもそも「大局観」という言葉を使用するのがふさわしいのかどうかがあやしい、というのがその理由です。大局観がコンピュータ将棋のアルゴリズムにおける何を意味しているのか分からないからです。

一方で、「形勢判断」については「評価値」のことです。評価関数というブラックボックスがあるにせよ、何を意味するかは明確です。

 

もっとはっきり定義しようとすると、読みがゼロの条件での評価値が重要です。コンピュータ将棋の業界では、読みゼロでの評価値を表す特別な用語が何かあるのでしょうか? 私は知りませんが、何か専門用語があった方が便利です。

将棋界で普通に使われる「形勢判断」には読みの要素が含まれているので、読みゼロでの形勢判断ではありません。コンピュータ将棋の「評価値」という用語も、普通は読みの要素が含まれているので、こちらも読みゼロでの形勢判断ではありません。

ただし、コンピュータの場合は、機械的に読みの深度を変えられるでしょうから、ゼロにするのはおそらく簡単です。専門用語があるかどうかは別にして、「読みゼロの形勢判断」が何を意味するかは明白です。

 

「読み」と「読みゼロの形勢判断」

このようにコンピュータの「読み」と「形勢判断」について考えると、どうやら両者は全く別のものとして定義できそうです。

そして「読み」については、すべてを網羅するという究極形の一つです。この点については、方針としては究極ですが万能ではなく、何手先まで読めるかはハードによる演算能力の限界の壁があります。

「形勢判断」については、読みゼロの形勢判断(あるいは評価値)を定義できます。「読みゼロの形勢判断」という概念を定義できる時点で、読みと形勢判断を全く別の概念として定義できている証拠です。これは、単純に現在の駒の配置の点数を評価するというものです。

 

コンピュータ将棋を考える上でのスタート地点がここです。繰り返しますが、

「読み」と「形勢判断」と「読みゼロの形勢判断」を別の概念として認識する。そして、それらの性質について考える。

というのが基本になると思います。

 


マイナビ 将棋レボリューション 激指14

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最善手とは? ~絶対と相対~ https://shogijugem.com/shogi-yogo-saizenshu-1093 Sat, 07 May 2016 07:06:12 +0000 https://shogijugem.com/?p=1093 「最善手」とは何でしょうか?   このシンプルな問いが本記事のテーマです。 「最善手」とは、ある局面において「最も善(よ)いと考えられる指し手」という意味で使われています。しかし、そもそも「最も善い」とはどうい...

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フクロウ

最善手」とは何でしょうか?

 

このシンプルな問いが本記事のテーマです。

「最善手」とは、ある局面において「最も善(よ)いと考えられる指し手」という意味で使われています。しかし、そもそも「最も善い」とはどういうことでしょうか?

 

このページの目次

悪手の山の中にある好手と最善手

将棋の神は最善手を選べるのか?

将棋の局面の絶対的な評価と相対的な評価

悪手の山の中にある好手と最善手

例えば、先手が優勢の局面で、手番を握っている先手に可能な指し手が100通りあるとします。そのうちのただ1通りの指し手だけが先手の優勢を維持し、残りの99通りの指し手が逆転を許す指し手だとしたら、先手の優勢の維持する唯一の指し手は最善手と言えるでしょう。

そうすると、他の99通りの指し手は逆転を許す悪手ということになるので、

1. 最善手、2. 悪手、3. 悪手、4. 悪手、・・・(悪手の山)・・・、99. 悪手、100. 悪手。・・・ケース①

という風に、このケースを表現できます。

 

しかし、もし優勢を維持する指し手が2通り以上ある局面ならどうでしょうか?

仮に、優勢を維持する指し手が2通りあるとして、その指し手に(悪手の反対で)「好手」という名前を付けることにすると、

1. 好手、2. 好手、3. 悪手、4. 悪手、5. 悪手、・・・(悪手の山)・・・、99. 悪手、100. 悪手。・・・ケース②

というように、悪手の山の中に好手が2つだけ存在する局面ということになります。

 

ケース②の場合に、この2つの好手のうち「どちらかが最善手、もう一方が次善手」というように優劣をつけられるかどうかが問題になります。

例えば、片方の手が駒得を重視する手であり、もう片方が相手玉に迫るスピードを重視する手であるとします。両者は異なるメリットを主張する手ですが、そのどちらも優勢を保てる手です。このような場合に、どちらの指し手が最善手かを決めるのは、必ずしも簡単ではないと思います。

あるいは、多くの人間の目から見て、明らかに片方の指し手の方が優っていて、そちらが最善手と評価されるような場合もあるでしょう。そのような場合ですら、最善手を決めるにあたって問題がないわけではありません。

将棋の神は最善手を選べるのか?

仮に、全知全能の将棋の神がいたとします。

ケース①の場合に、将棋の神はいとも簡単に最善手を導き出します。

 

しかし、ケース②の場合に、将棋の神はどうやって最善手を選ぶのでしょうか? もしかすると、サイコロを振って最善手と次善手を決めてしまうかもしれません。

人間の目には明らかに片方が最善手に見えるのに、将棋の神は平然ともう片方を最善手と言ってのけるわけです。そして、その選択に対して人間が納得いかずに抗議をすると、将棋の神はこう答えます。

 

「どちらでも先手の勝ちなのに、どうしてそんな些細なことにこだわるのか? 人間の考えることはさっぱりわからない。」

 

極端なことを言えば、詰みのある局面で詰ます手順を最善手と呼ぶかどうかすら怪しいです。

「詰みのある局面で詰ますのが最善であるというのは、人間の理想や美学が反映されている」と諭されるかもしれないですし、「有限の寿命を持つ人間だから最短の勝ちが最善であるという価値観を持ちやすい」とか、人間にはとうてい理解できない反論のされ方をするかもしれません。

 

いずれにしろ、ケース②で最善手と次善手を決めようとすると、絶対的な勝ち負け以外の、何らかの評価基準や価値観が必要ということになります。すなわち、多かれ少なかれ、その判断には主観的な要素が混じるということです。たとえ、ある評価基準に従って客観的に最善手と次善手を決めるとしても、その評価基準自体に(勝ち負け以外の)主観的な要素が入ってしまうので、結局は主観的な要素が混じってしまいます。

将棋の局面の絶対的な評価と相対的な評価

少々脱線しましたが、実は本記事のテーマの一つは「絶対的な局面の評価」と「相対的な局面の評価」の違いです。

 

優勢を維持する指し手がただ一つしかない局面では、最善手を指すか否かによって、結果として優勢(勝ち)になるか劣勢(負け)になるかという絶対的な違いが生じます。もちろん、最善手を指した局面と、そうでない悪手を指した局面を比較すると、両者の相対的な比較によっても最善手の方が優れているわけです。しかし、この場合に最も重要なのは、片方は優勢を維持し、もう片方は逆転を許すという意味で、二つの指し手に絶対的な違いが生じている点です。(ケース①)

 

一方で、優勢を維持する指し手が複数ある局面では、そのいずれの指し手を選んでも、優勢であることに変わりはありません。つまり、勝ちか負けかという究極的な(絶対的な)形勢判断に対する結果は変わらないのです。ただし、ある指し手と別の指し手を比較した時に、人間の目で見て、明らかにこちらの方が勝ちやすいという相対的な評価はしうるでしょう。(ケース②)

 

これは、コンピュータ将棋の評価値で、「+か-かの符号の違い」と、「同じ+でも数字が大きいか小さいかの違い」と考えてもらえばわかりやすいです。

 

このような考察は、将棋の実戦においても無関係ではなく、

優勢なときにどのような勝ち方を選ぶか?

という問題を発生させます。

 

一方で、優勢を維持できる手が一つしかないような局面は、問題としてはある意味単純で、唯一の正解である最善手を探し出せるかどうかという問題に帰着します。

 

終盤は誰が指しても同じ

 

とは(おそらく)昔の羽生善治さんが言ったことがですが、これはある意味で正しいです。終盤で煮詰まった局面では、優勢を維持できる手が一つしかない場合も多いからです。また、複数の勝ち方がある場合にしても、ギリギリの終盤戦ではかなり選択肢が限定されているので、「終盤は明確な答えが(複数であれ)存在する」という意味だと思います。この場合の「明確な答え」とは、数学の問題の答えのようなイメージです。

 

しかし、序盤や中盤ではどうでしょうか。明確な答えを得るのは簡単ではないと思います。また、終盤でどちらかが少し優勢ぐらいの形勢で、おそらく逆転には至っていないものの、延々と指し手が続くような将棋はいくらでもあります。有力な選択肢が複数存在するような局面が何度も現れれば、そのたびに悩まされることになります。

そんな様子を将棋の神様が怪訝な顔で眺めているかはともかく、優勢な局面で、かつ優勢を維持する指し手が複数ある場合に、何が最善手なのかを決めることは容易ではありません。

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